身体と制度

「日本人は水はけのいい、すのこ状の床でないと上がることができない。そう躾られている。こうして身体化されているということがインフラ(下部構造)が自明化されていることであって、つまりインフラに個々の身体まで組み込まれているということでもある。」
GA JAPAN 78 [形式性] インタビュー・建築とインフラストラクチャー 岡崎乾二郎

「そう躾られている。」のであって、靴を脱いで上がるということは、日本人の本来の身体の特性でもなんでもないのだ。むしろ、このようにインフラ(下部構造)を身体化することで、本来〜である(あった)というような制度を作り出しているのである。
つまり、インフラ(下部構造)による全ての物事の経験は身体化し、その身体化が、その全ての物事において、そういう物事がある(あった)、身体がある(あった)という制度を、初めからそうであるかのように作り出してしまうということだ。

そうは言っても、物事-身体は、そのような制度とは、本来 無関係であり、(他律的)自律していると。
身体化による制度から身体を自由にすること。これが繰り返されてきた身体の様々な試みや探究である。

ところで、もう一度引用文に戻ると、「、、、インフラに個々の身体まで組み込まれているということでもある。」とある。
制度的/非制度的、どちらであろうと身体は、制度の外側で機能するインフラ(下部構造)に形作られるのであり、自らすらも全くコントロールできない他律的なものである。

(美術手帖 1996.12 特集「都市とアートの真相」、p60-「真の「パブリック・アート」はいかにして可能か―21世紀型アーティスト・サヴァイヴァル戦略」、岡崎乾二郎 も参照のこと。)



1990年代からだ

1989のベルリンの壁崩壊の映像に代表される共産主義体制の崩壊は、共産主義的な理念に留まらず、あらゆるイデオロギーや制度の崩壊へと伝播し、よく言われているように、イデオロギーの敗北や大きな物語の終了として捉えられたり、半ば強制終了的に実行されていった。
資本主義やアメリカ型消費社会の圧倒的勝利がここで決定的になったとされるわけだけども、実はアメリカではかなり前から、あるいは戦後日本において、制度、意味、人間性、イデオロギー、物語を全く持たず、それだけで満足できるような欲求的な消費記号にこそ、いやそれのみに、実在やハイパーリアル、リアリズムを見出すという高度資本主義的な試みが行われてはいたのだが、何にしろ、1990年代以降は、物語の消失に伴って、制度外に浮遊するイメージ、記号といったシミュラークル(模像)を、それだけでよりリアル!にすること、その試行錯誤からスタートした。
従来のイデオロギーや制度は確かに消失したのだが、実は新しいイデオロギーや制度に変わられたにすぎず、そもそも、実在に関する限り、何らかの理念や制度を生むことからは決して逃れられない。高度資本主義が高速化に伴って理念や制度を次々に崩壊させていったとしてもである。
このようなリアリズムの探究と全く予想すらしてなかったいくつかのことから、1995ぐらいから様々な機能不全が起こるようになる。
それは、シミュラークルが全く成立しない状態。つまり、制度も理念も全くないということ。
まとめると、
1990年代は、前半はイデオロギーの敗北によるリアリズムの暴走とイデオロギーの入れ替え、1995ぐらいからは、機能不全、の2段階があったということである。



1990年代のアート

1990年代のアートとそれにおける身体の有り方についての記述をここからするのだが、正確には、1990年代の日本、いや東京エリアのアートシーンという非常に限定された設定での様々な試みや展開についての記述となる。
何故かというと、当時東京で注目されていた作家の仕事や傾向が、2008現在、世界的なアートのマーケットやシーンで注目されているということもあるが、ネット上に1990年代のアート情報が少ないということの方が理由としては大きい。1990年代の様々なアートを今、身を持って経験する機会になればイイなと思う。

1990年代の3つの段階移行を西洋と日本における制度の有無の違いで区分した上での展開と身体化もしくは、情報化する身体と からだ について。


制度の有無

西洋のハイアート
何らかの制度消失によって浮遊する制度外のイメージや記号において、制度化されていた身体や人間はどうなるのかという試行。そして、その繰り返し。身体が実在の徴として用いられ、その似姿が反復される。欲求を満たさせるために絶え間なく変化し続ける高度資本主義化。

日本の戦後美術
初めから制度がないとされる。浮遊する制度外のイメージや記号において、身体が構成される。
あるいは、欲求を満たすためだけの身体。情報化する身体。
西洋的な身体や人間の似姿がない。



3つの段階移行

第1段階
よりハイパーリアルな状態(実在)を作るためにシミュレーションが用いられる。
→シミュレーショニズム
第2段階
データベースを実在の根拠としてシミュラークルを自律させる。
データベースと欲求的シミュラークルの二重消費。
→解離的なポストモダン
第3段階
リアリズム(実在)の崩壊を目論む。
→機能不全



シミュレーショニズム

1980年代のNYから始まったアートの一傾向。
シミュラークル(模像)をよりハイパーリアルな状態(実在)とするためにシミュレーションが用いられる。
1981にジャン・ボードリヤールが書いた「シミュラークルとシミュレーション」から多大な影響を受けている。

「領土が地図に先行するのでも、従うのでもない。今後、地図こそ領土に先行する―シミュラークルの先行―地図こそが領土を生み出すのであり、、、」
(ジャン・ボードリヤール「シミュラークルとシミュレーション」、p2、法政大学出版局、竹原あき子訳)

「シミュレーションとは起源(origine)も現実性(realite)もない実在(reel)のモデルで形づくられたもの、つまりハイパーリアル(hyperreel)だ。」
(ジャン・ボードリヤール「シミュラークルとシミュレーション」、p.1-2、法政大学出版局、竹原あき子訳)

「いまシミュラークルをもくろむ者は、実在を、あらゆる実在を、彼らのシミュレーションモデルと一致させようとしている、、、」
(ジャン・ボードリヤール「シミュラークルとシミュレーション」、p2、法政大学出版局、竹原あき子訳)

ボードリヤールは、もはや何の制度や意味も持たず、イメージや記号といったシミュラークル(模像)は、実在すると考える。その方法としてシミュレーションが用いられるとする。
制度化されたアートシーンの閉塞状況を打ち破るために制度外のイメージや記号を実在としなければならない、あるいは資本主義的な、マーケットの要請によって、若しくは、イデオロギーが消失し、シミュラークルが浮遊する1990年代の予見として、シミュレーショニズムはNYでまず導入される。
→NY的シミュレーショニズム
日本では、元々、第二次戦後、何の制度も持たず、美術に限らず、社会全体や景色において、イメージや記号が氾濫していたことに加えて、1989のイデオロギーの消失や日本美術界の閉塞状況の打破などが重なり、1990頃にシミュレーショニズムは発生する。
1995には、ほぼ終結してしまったと思うが、シーンやマーケットでは未だ根強く残っている傾向である。
→日本におけるシミュレーショニズム

シミュレーションとは、ないことをあるように擬装することであり、反復可能である。
完全なシミュレーションは、何かを参照することなくそれ自体で完結し、何度シミュレートしても変わることがない。
つまり、非参照による原型、本体、元ネタ、意味、制度の前提拒否と、反復による本体、意味、制度の無効化、によって、シミュラークル(模像)をそれだけで実在させるというわけだ。
反復による制度の無効化は、写真という複製技術によってアウラが消失するとベンヤミンが、指摘するように、19世紀末から20世紀初頭において、既に技術的に生じており、20世紀は複製芸術の時代だったと言える。
しかし、シミュレーションが実在に関することである限り、シミュラークルを実在付ける制度を必ず持つ。要するに何者かによる制度付けがあり、シミュラークルだけで実在しているとは言い難いのだ。



NY的シミュレーショニズム

日本におけるシミュレーショニズムの展開と区別するためにここではそう名付けた。
→この傾向に至る背景について
20世紀の複製芸術であり、1950年代から1960年代にかけて発生したポップアートは、反復と大衆の欲求を満たす表層的な記号やイメージを用いて、シミュラークル(模像)の実在を目論む作品を作り、その傾向を継承しつつ、シミュレーションという擬装を導入することで、よりそれだけで完結している実在を作ろうとする。
(→ウォーホルとリキテンスタインの違い)
→身体の扱いについては、伝統的な西洋のアート、及び、高度資本主義化に見られる、制度化している身体、人間を制度外において生かす試行。
身体や人間、人々の関わりもシミュラークルを実在付ける保証となっている。
(→何故、人型や人々の関わりのことなのか?西洋のハイアートと日本のマンガ
制度から外へと、あるいは別のとこへと入って行く感じ。

1986のソナベントギャラリー(Sonnabend Gallery、NY)でのネオ・ジオの展覧会とハル・フォスターの論文がその傾向を盛り上げていった。
(ハル・フォスターは、「視覚論」において、体のメカニズムによる 視覚 と社会的な制度による 視覚性 を区別する。)

→NY的シミュレーショニズムの作家、及び展覧会の詳細
ピーター・ハリー(Peter Halley)
NY的シミュレーショニズムの中心的作家。
ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)
NY的シミュレーショニズムの展開(ピーター・ハリーを中心とした)より早くシミュレーションを用いる。
シンディ・シャーマン(Cindy Sherman)
ジェニー・ホルツァ(Jenny Holzer)
バーバラ・クルーガ(Barbara Kruger)

ジェフリー・ダイチ企画による「POST HUMAN」展(1992/ローザンヌ、他巡回)は、身体の新しい有り方を追求するものとしてターニングポイントとされることの多い展覧会。
参加アーティスト
ロバート・ゴーバー(Robert Gober)
フェリックス・ゴンザレス-トレス(Felix Gonzalez-Torres)
ダミアン・ハースト(Damien Hirst)
マーティン・ホナート(Martin Honert)
マイク・ケリー(Mike Kelley)
ポール・マッカーシー(Paul McCarthy)
ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)
太郎知恵蔵
マシュー・バーニー(Matthew Barney)
森村泰昌
フィッシュリ&ヴァイス(Fischli & Weiss)

他の作家達
ディノス&ジェイク・チャップマン(Jake & Dinos Chapman)
ギャビン・ターク(Gavin Turk)
オルラン(OLRAN)
森万里子



日本におけるシミュレーショニズム

NY的シミュレーショニズムと区別するために、ここでは日本における〜と名付けた。
→この傾向に至る背景について
1991に美術評論家の椹木野衣が書いた著書「シミュレーショニズム」と日本美術界の閉塞状況を打破しようとしたこの時期に登場した若い作家達や新しいギャラリー等において、このシミュレーショニズムという傾向が生まれる。

戦後日本におけるいくつかの特色が重なり合う性質を持つ。
1.アメリカの工業製品を取り入れつつ、それを高い技術でカスタムし、使いやすさ、小型化、軽量化、コストダウンに優れた オリジナル の製品を生み出し、商品シェアを拡大したということ。
2.より個人的な欲求に手っ取り早く応えてくれる(アメリカの大衆の全ての欲求を満たすポップアイコンとは異なる)、マンガ・アニメ・キャラクターやアイドル、カワイイといった独自発展した氾濫するフラットなイメージ。
3.椹木野衣が指摘する、戦後の日本美術は制度も言説も碌にない 悪い場所 であるということは、西洋のハイアートからは離れた、制度外のおかしな、あるいは独自の展開をしているように見えるということ。むしろ、この状況を肯定的捉える。
4.情報化

時代背景とこれらの特色が条件となって、1990年代前半の主に東京のアートシーンで日本におけるシミュレーショニズムは発展する。(ただし関西の作家もいる。)
→身体の扱いについては、制度外のイメージや記号といったシミュラークルや情報の側で手っ取り早く欲求を満たす身体やそれら側で構成されたり、没入している身体となっていることが多い。
西洋のアートに見られるような人間像や人々の関係がほとんど用いられていない。

椹木野衣
美術評論家、キュレーター。
本「シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術」
展覧会「Anomaly」(1992.9.4-11.4/レントゲン藝術研究所、大森・東京)
展覧会「909-ANOMALY2」(1995.2.4-4.2/レントゲン藝術研究所)
本「日本・現代・美術」(1998.1/新潮社)
展覧会「日本ゼロ年」(1999.11.23-2000.1.23/水戸芸術館・現代美術センター、水戸・茨城)
→詳しくはこちら

アーティスト

飴屋法水/テクノクラート
ヤノベケンジ
村上隆
伊藤ガビン
柳幸典
中山ダイスケ
コンプレッソ・プラスティコ
西山美なコ
真島竜男
中原浩大
曽根裕
ダムタイプ
須田悦弘



メディアアート

新しい技術で結合された新しいメディアによるもの。
より詳細な説明はwikipediaの「メディアアート」の説明に譲るとする。
メディアアート自体は1990年代に突如現われた新しいアートではない。そもそも、全ての芸術はメディアアートだとも言える。
それでも、このメディアアートと呼ばれるカテゴリーが1990年代に注目を集めることになるのは、コンピューターや通信に代表されるように、様々なジャンルで新しい技術が登場してきたということに尽きる。
古いメディアによって固定され、制度化されていた身体(*対象を見るといった固定化された関係の身体)は、新しい技術によって(新しい)メディアごと、制度や意味から切り離される。これは、写真の登場から始まるとされる20世紀の複製芸術においても同じである。新しい技術は古い制度や意味、物語を解体するのだ。身体は新しいメディアに没入し、あるいはメディアそのものとなる。1895にリュミエール兄弟が上映した「ラ・シオタ駅への到着」を見た観客が、駅に入ってくる汽車の映像を見て逃げようとしたという話は真偽はともかく有名だが、映像がホンモノそっくりだったことが逃げる理由だったのではなく、映画を見るということが制度化されていない時代であったので、人々はその新しいメディアの中へ没入し、それがホントに起こっているかのように経験してしまった。技術は人々を夢中にさせ、実在へと変える。
映画は、運動をいくつもの瞬間へと分解する。運動において静止する瞬間はありえないのだが、上映することで、瞬間と瞬間、事物と事物の間に、あたかも動いているかのように、あるいはストーリーが展開しているかのように運動を作り出す。この運動が映画であり、このように技術による統合がメディアと呼ばれている。つまり、メディアそのものである身体も何かと何かの間に生まれているのだ。
映像は逆再生したり、スロー再生したり、編集し繋ぎ直すことができる。運動は、撮影したはずの元々の運動とは別物であり、いやそもそもそんな運動があったのかも怪しいのだが、技術によってそれ自体で実在となっているということだ。
光と音とか、生体情報と映像とか、新しい技術による統合が次々と新しいメディアを生み出し、新しい身体を作るというのが1990年代以降のメディアアートの特徴である。

欧米のメディアアートは現代美術のジャンルで主に展開されてきたとされるが、E.A.Tの活動などはやや異なるだろう。
また、1990年代以降の日本においては、制度化されたアートとは異なる展開をする。

日本のアーティスト
八谷和彦
三上晴子
古橋悌二
三輪眞弘
るさんちまん/南隆雄



1990年代の写真・映像

1990年代以降において、それまでの写真・映像とは異なる特徴を持った作品が多く現われる。
→時代背景について
特徴

・制度外
―写してはいけないもの、意味ないもの
・対象を見る、撮る視線の崩壊
―撮り手が写真に写る。
―何を見ているのかわからない。何も見ていない。
・制度化されていない身体
―裸。社会の中で制度付けられている服を脱ぎ捨てるということ。
・撮られる対象でしかなかった女による撮影
・欲求的
―意味なく、手っ取り早くそれだけで満足できるもの。日本の作家の場合、より個人的な欲求。
・最低限の欲望
―自分にとって必要な範囲での社会構成、情報収集。トモダチ、家族、室内、退屈な日常、ネコ、近所。
・技術的に写真を解体して構成し直す。
―CG、アイコラ。
・簡単撮影
―写るんです(使い捨てカメラ)、プリクラ、チェキ、ケータイ、デジカメ。

1990年代の東京において、このような傾向を持った写真家が多く登場する。
キャノンの写真新世紀という公募展から特に。

写真家
篠山紀信「サンタフェ」
アラーキー

ホンマタカシ

蜷川実花
長島有里枝、家族のヌード写真(1993、urbanart#2)
HIROMIX

佐内正史
野口里佳
川内倫子
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杉本博司
港千尋
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1990年代に日本で展覧会等を行なった作家達
ドイツ
(ベッヒャー夫妻)

トーマス・ルフ
ヴォルフガング・ティルマンス

北米
ラリー・クラーク
ジャック・ピアソン
ナン・ゴールディン
ジェフ・ウォール

フランス
ベルナール・フォコン
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施設・企画
東京都写真美術館準備館
写真新世紀
BRUTUS「絶対裸体」
スタジオボイス
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解離的なポストモダン

東浩紀が2001に出版した「動物化するポストモダン」の中で、ポストモダンにおいて、シミュラークル(欲求)とデータベース(欲望)の二重消費が起こっていること対して、精神医学の言葉借りて「解離的」と呼んだことから採用した。(「動物化するポストモダン」p.123)

1989のイデオロギーの敗北、大きな物語の終了によって、浮遊し初めたイメージや記号といったシミュラークル(模像)は、シミュレーションという方法を用いることで、それだけで実在しているとされた。
しかし、実在、リアリズムに関することである限り、シミュラークルを実在付ける制度が必ずあり、シミュラークルが単独で自律しているとは言い難い。そもそも、この制度とは何者かによって決定されており、根拠なき根拠によって実在付けていたということだ。

曖昧な根拠ではなく、シミュラークルの実在を保証する情報が求められるようになる。

東浩紀によると、大きな物語や制度は、20世紀において、1970を中心に1914-1989の75年間をかけて、技術とイデオロギーの消失によって緩やかに崩壊し、ポストモダンへと移行したとのこと。この東浩紀の指摘に沿って解離的ポストモダンへ至る流れを確認することにしよう。

技術による制度崩壊 ―シミュラークルの全面化
社会・イデオロギー消失による制度崩壊 ―大きな物語の凋落



技術による制度崩壊 ―シミュラークルの全面化

アウラの消失

ベンヤミンが1930年代に指摘したように、写真の登場から始まるとする複製技術は、イメージや記号といった表層のシミュラークルを制度や意味や物語といった同一性を保証するようなアウラから切り離し消失させる。
アウラに関しては、岡崎乾二郎東浩紀の解釈に多少の相違があるので紹介する。
→そのつどの組み合わせの同一性の保証として(岡崎乾二郎)
→儀式の一回性の背後をつなぐ同一性(東浩紀)

そのつどの組み合わせの同一性の保証として

「うーん。たとえばアウラという概念があるでしょう。作品の唯一性というように誤解されているけれど、むしろ作品の同一性が保証されるシーケンス、コンテクストのことだと考えるべきだと思います。アウラの語源はギリシャ語でそよ風だったわけだし、事物と事物を結びつける風、つまりコミュニケーションが成立する場のことである。写真ではそのアウラとしての場が切断されている。読み直してみると、『写真小史』でベンヤミンはきわめて明快なこう規定している。アウラが保証されていない時は、意味も室も、ひとつに固定できない。にもかかわらず写真あるいは何かを理解しようとすると必ず、それを他の何かに結びつけるためのアウラ、つまりシーケンスが要請される。何に関係するのかわからない。いまだ関係として定位されえない関係が感じられる。・・・(中略)・・・ベンヤミンがいちばん偉い点は、写真を発表する、写真を見るという行為を会話行為のように捉えたところにあると思います。会話の意味はその会話がなされている場、そのアウラ、―その場に流れている風―の中でしか確認できない。会話とは、その場に応じて話すわけですが、写真はそうした場から切断されてしまい、そこに撮られた人、それを撮った人にとっても、いったい、どこでいつ、誰にこの写真が見られるかわからない。ベンヤミンはそれを顔という概念で説明しています。」
(「美術手帖 2006.5」 斎藤環の境界線上の開拓者たち 岡崎乾二郎×斎藤環 <関係>と<学習>の創造)

アウラは作品の同一性が保証されるシーケンスであり、事物と事物の間を流れるとする。
そのつど異なる一回限りのことにおける同一性だと。

儀式の一回性の背後をつなぐ同一性

「『複製技術時代における芸術作品』という短い論文である。そこでベンヤミンは、特定の作品に宿るオリジナリティの感覚(「アウラ」と呼ばれる)とは、その作品の存在を生み出した「儀式」の「一回性」によって根拠づけられるものだが、複製技術はその感覚を無効にしてしまう、、、この主張がのちのシミュラークル論の根幹となる。ベンヤミンのこの「アウラ」の捉え方は、じつは前述のツリー・モデルをきれいに反映している。オリジナルを前にしたとき、鑑賞者はそこに何か作品を超えた「儀式」との繋がりを感じる。コピーにはその繋がりがない。」
(東浩紀 「動物化するポストモダン」p.84-85)

それぞれ固有の一回きりのものなので、その背後にそれら全てをつなぐアウラが存在するということ。


どちらにしろ、複製技術は、一回性を無効にすることで、アウラを消失させる。つまり、同一性は保証されず、コピー/オリジナルという対立構図ではなく、単なる意味を持たないイメージや記号として、その表層、シミュラークルは浮遊するようになる。

エヴァの頃のオタクの二次創作―シミュレーショニズム

1995.10-1996.3に放映されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は、オタクのみならず、空前のブームを引き起こしたわけだが、その謎に満ちたようなストーリーと構成によって、オタク達の創作活動を刺激し、無数の別の物語が同人誌などで作られたのを初めとして、制作者自身のガイナックスによってもそのような別構成的なことが行われる。
東は指摘していないが、個人の欲求を満たす物語のために、様々なシミュレーションが試みられたということである。
この時代の二次創作は、まだPCもそれほど普及しておらず、MADと呼ばれる本編のアニメ素材を用いて並び変えるような作品も多少登場していたが、基本的にオタクの手作業によるもので、技術的に本編=物語を解体するに至っていなかった。
またこのような創作活動は、オリジナルの世界観を踏まえており、それぞれの小さな物語の背後に大きな物語をより強化してしまうということにもなってしまっていた。
小さな物語、シミュラークルを実在付ける制度が生み出されており、それだけで実在しえてないということだ。


技術で制度解体 ―データ吸い出し+組み立て、二重消費

エロゲは選択肢を選び複数に分岐するストーリーで欲求を満たすものだが、オタクの欲望はそれに留まらず、技術を用いて、そのストーリーの構成要素であるデータを吸い出すことも行う。
技術的に全てのデータを吸い出すことで、分岐するストーリーや小さな物語、シミュラークルが、バラバラの情報の集まり、データベースによって支えられていると分かる。これによって、それまでシミュラークルを実在付けていた制度や大きな物語は解体し、データベースという大きな非物語に取って替わられることになる。
データベースの情報は個人的欲求によって組み合わせられ小さな物語やシミュラークルとなる。
ある組み合わせは、別の他者の欲求的組み合わせでも良いわけで、そういう組み合わせの可能性を持つデータベースや情報を共有し、裏打ちとすることが、他者も組み合わせることができるので自分のもリアルだみたいな感じを引き起こす。
データベースと欲求を満たす小さな物語やシミュラークルの二重消費をすることが、シミュラークルの実在を保証するのだ。


社会・イデオロギー消失による制度崩壊 ―大きな物語の凋落

コジェーヴによるヘーゲル的歴史の終わりの後、人々には2つの生存様式しかないということに基づいて展開していく。
日本的スノビズムに生きることと戦後アメリカ消費社会に見られる動物的に欲求を満たすこと。

→形式的な人間性
→動物的欲求と最低限の欲望社会

形式的な人間性

環境や自然や内容と敢えて理由もなく対立し、そこから切り離し続けるために形式化することが人間性となるということ。
敢えてそう信じることがスノビズムやシニシズムである。
例えば、切腹。
日本におけるオタクは、アニメのような子供騙しを敢えて受け入れて、本気で感動したりする。これは洗練されたスノビズムであり、より個人的な趣向のレベルで形式化された人間性を生む。
また大澤真幸は、1970-1995の日本のイデオロギー状況を「虚構の時代」とし、嘘だと分かっていても敢えて受け入れるように人々は生きていたと。

動物的欲求と最低限の欲望社会

1995の様々な事件は、虚構のイデオロギーを全て消失させた。そういう状況で現われたのは、それだけで満足できるような動物的な欲求である。
その欲求を満たすために最低限の繋がりやコミュニケーションで情報が収集できるような小さな欲望社会が発生する。
動物的欲求を満たすことと最低限の欲望社会による二重消費に基づく、シミュラークルの実在の保証が行われる。


このような二重消費が1990年代のオタクの創作及び消費活動で特に起こっているとのこと。

ところで、東浩紀の仕事は多岐に渡るが、その中でオタクの消費行動を元にしたマンガ・アニメとゲームやラノベのような、かつてサブカルに位置していたジャンルにおけるリアリズムと管理型社会における個人認証や監視の問題についての2つがある。
マンガ・アニメとゲームやラノベは、人や人間の営み(キャラクターも人間のようにコミュニケーションする)に関することがほとんどであり、イメージや記号や小さな物語といったシミュラークルは身体化されている。
このような傾向は西洋のハイアートにも見られる。
管理型社会における個人認証や監視の問題においては、人や身体は情報化されている。
このような傾向は日本におけるシミュレーショニズム以降にも見られる。
どこでも個人認証できるように多くの個人情報はデータベースに保存され、コンピューターで監視されることで便利になっているというわけだ。


いずれにしても、データベースとシミュラークルの二重消費を実在付ける制度を必ず持つ。
何をやっても制度を持ちうるし、シミュラークルがひと繋がりである限り実在に関することになる。
そこで、制度そのものを成立させているストラクチャーを壊すという自壊へと移行し、機能不全とシミュラークルの不成立を目論むようになる。

参考文献
東浩紀
著者「動物化するポストモダン」「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
web公開文章「情報自由論



機能不全

リアリズム(実在)の追求しすぎは、リアリズム(実在)を保証する制度を成立させているストラクチャーを壊すという自壊へと移行する。
リアリズム(実在)の追求しすぎだけではなく、1995の阪神大震災によるインフラストラクチャーの崩壊や1990年代後半の不景気におけるものが売れないことによる商品(価値)の不成立なども加わって、1995以降、あらゆる場面で機能不全に陥る。
シミュラークルは成立せず、身体も失われ、お互い知りえないような個人的感覚の束の集まり。
欲求も欲望もない。
ストラクチャーは、ひとつのイメージや記号といったシミュラークルや価値やリアリズム・実在をもはや作らず、お互い知りえないような個人的感覚の束の分散的な集まりを作る亀裂ストラクチャーとして機能する。体の諸部分による個人的感覚は、亀裂ストラクチャーによってそのつど組み合わせられ経験となりそのつどの身体となる。
身体は、他者やもののストラクチャーでそのつど組み合わせられるしかないのだ。

→UNKNOWNMIX ―1994、ノイズ(ミュージック)、非リアリズム的
→裏原、セレクトショップ ―売りものなのこれ・・・?
→小沢剛 ―1990年代後半以降の仕事、トンチキハウスという脱力系公共性
→ネットワーク上で切断状態



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