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解離的なポストモダン
東浩紀が2001に出版した「動物化するポストモダン」の中で、ポストモダンにおいて、シミュラークル(欲求)とデータベース(欲望)の二重消費が起こっていること対して、精神医学の言葉借りて「解離的」と呼んだことから採用した。(「動物化するポストモダン」p.123)
1989のイデオロギーの敗北、大きな物語の終了によって、浮遊し初めたイメージや記号といったシミュラークル(模像)は、シミュレーションという方法を用いることで、それだけで実在しているとされた。
しかし、実在、リアリズムに関することである限り、シミュラークルを実在付ける制度が必ずあり、シミュラークルが単独で自律しているとは言い難い。そもそも、この制度とは何者かによって決定されており、根拠なき根拠によって実在付けていたということだ。
曖昧な根拠ではなく、シミュラークルの実在を保証する情報が求められるようになる。
東浩紀によると、大きな物語や制度は、20世紀において、1970を中心に1914-1989の75年間をかけて、技術とイデオロギーの消失によって緩やかに崩壊し、ポストモダンへと移行したとのこと。この東浩紀の指摘に沿って解離的ポストモダンへ至る流れを確認することにしよう。
→技術による制度崩壊 ―シミュラークルの全面化
→社会・イデオロギー消失による制度崩壊 ―大きな物語の凋落
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技術による制度崩壊 ―シミュラークルの全面化
アウラの消失
ベンヤミンが1930年代に指摘したように、写真の登場から始まるとする複製技術は、イメージや記号といった表層のシミュラークルを制度や意味や物語といった同一性を保証するようなアウラから切り離し消失させる。
アウラに関しては、岡崎乾二郎と東浩紀の解釈に多少の相違があるので紹介する。
→そのつどの組み合わせの同一性の保証として(岡崎乾二郎)
→儀式の一回性の背後をつなぐ同一性(東浩紀)
そのつどの組み合わせの同一性の保証として
「うーん。たとえばアウラという概念があるでしょう。作品の唯一性というように誤解されているけれど、むしろ作品の同一性が保証されるシーケンス、コンテクストのことだと考えるべきだと思います。アウラの語源はギリシャ語でそよ風だったわけだし、事物と事物を結びつける風、つまりコミュニケーションが成立する場のことである。写真ではそのアウラとしての場が切断されている。読み直してみると、『写真小史』でベンヤミンはきわめて明快なこう規定している。アウラが保証されていない時は、意味も室も、ひとつに固定できない。にもかかわらず写真あるいは何かを理解しようとすると必ず、それを他の何かに結びつけるためのアウラ、つまりシーケンスが要請される。何に関係するのかわからない。いまだ関係として定位されえない関係が感じられる。・・・(中略)・・・ベンヤミンがいちばん偉い点は、写真を発表する、写真を見るという行為を会話行為のように捉えたところにあると思います。会話の意味はその会話がなされている場、そのアウラ、―その場に流れている風―の中でしか確認できない。会話とは、その場に応じて話すわけですが、写真はそうした場から切断されてしまい、そこに撮られた人、それを撮った人にとっても、いったい、どこでいつ、誰にこの写真が見られるかわからない。ベンヤミンはそれを顔という概念で説明しています。」
(「美術手帖 2006.5」 斎藤環の境界線上の開拓者たち 岡崎乾二郎×斎藤環 <関係>と<学習>の創造)
アウラは作品の同一性が保証されるシーケンスであり、事物と事物の間を流れるとする。
そのつど異なる一回限りのことにおける同一性だと。
儀式の一回性の背後をつなぐ同一性
「『複製技術時代における芸術作品』という短い論文である。そこでベンヤミンは、特定の作品に宿るオリジナリティの感覚(「アウラ」と呼ばれる)とは、その作品の存在を生み出した「儀式」の「一回性」によって根拠づけられるものだが、複製技術はその感覚を無効にしてしまう、、、この主張がのちのシミュラークル論の根幹となる。ベンヤミンのこの「アウラ」の捉え方は、じつは前述のツリー・モデルをきれいに反映している。オリジナルを前にしたとき、鑑賞者はそこに何か作品を超えた「儀式」との繋がりを感じる。コピーにはその繋がりがない。」
(東浩紀 「動物化するポストモダン」p.84-85)
それぞれ固有の一回きりのものなので、その背後にそれら全てをつなぐアウラが存在するということ。
どちらにしろ、複製技術は、一回性を無効にすることで、アウラを消失させる。つまり、同一性は保証されず、コピー/オリジナルという対立構図ではなく、単なる意味を持たないイメージや記号として、その表層、シミュラークルは浮遊するようになる。
エヴァの頃のオタクの二次創作―シミュレーショニズム
1995.10-1996.3に放映されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は、オタクのみならず、空前のブームを引き起こしたわけだが、その謎に満ちたようなストーリーと構成によって、オタク達の創作活動を刺激し、無数の別の物語が同人誌などで作られたのを初めとして、制作者自身のガイナックスによってもそのような別構成的なことが行われる。
東は指摘していないが、個人の欲求を満たす物語のために、様々なシミュレーションが試みられたということである。
この時代の二次創作は、まだPCもそれほど普及しておらず、MADと呼ばれる本編のアニメ素材を用いて並び変えるような作品も多少登場していたが、基本的にオタクの手作業によるもので、技術的に本編=物語を解体するに至っていなかった。
またこのような創作活動は、オリジナルの世界観を踏まえており、それぞれの小さな物語の背後に大きな物語をより強化してしまうということにもなってしまっていた。
小さな物語、シミュラークルを実在付ける制度が生み出されており、それだけで実在しえてないということだ。
技術で制度解体 ―データ吸い出し+組み立て、二重消費
エロゲは選択肢を選び複数に分岐するストーリーで欲求を満たすものだが、オタクの欲望はそれに留まらず、技術を用いて、そのストーリーの構成要素であるデータを吸い出すことも行う。
技術的に全てのデータを吸い出すことで、分岐するストーリーや小さな物語、シミュラークルが、バラバラの情報の集まり、データベースによって支えられていると分かる。これによって、それまでシミュラークルを実在付けていた制度や大きな物語は解体し、データベースという大きな非物語に取って替わられることになる。
データベースの情報は個人的欲求によって組み合わせられ小さな物語やシミュラークルとなる。
ある組み合わせは、別の他者の欲求的組み合わせでも良いわけで、そういう組み合わせの可能性を持つデータベースや情報を共有し、裏打ちとすることが、他者も組み合わせることができるので自分のもリアルだみたいな感じを引き起こす。
データベースと欲求を満たす小さな物語やシミュラークルの二重消費をすることが、シミュラークルの実在を保証するのだ。
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社会・イデオロギー消失による制度崩壊 ―大きな物語の凋落
コジェーヴによるヘーゲル的歴史の終わりの後、人々には2つの生存様式しかないということに基づいて展開していく。
日本的スノビズムに生きることと戦後アメリカ消費社会に見られる動物的に欲求を満たすこと。
→形式的な人間性
→動物的欲求と最低限の欲望社会
形式的な人間性
環境や自然や内容と敢えて理由もなく対立し、そこから切り離し続けるために形式化することが人間性となるということ。
敢えてそう信じることがスノビズムやシニシズムである。
例えば、切腹。
日本におけるオタクは、アニメのような子供騙しを敢えて受け入れて、本気で感動したりする。これは洗練されたスノビズムであり、より個人的な趣向のレベルで形式化された人間性を生む。
また大澤真幸は、1970-1995の日本のイデオロギー状況を「虚構の時代」とし、嘘だと分かっていても敢えて受け入れるように人々は生きていたと。
動物的欲求と最低限の欲望社会
1995の様々な事件は、虚構のイデオロギーを全て消失させた。そういう状況で現われたのは、それだけで満足できるような動物的な欲求である。
その欲求を満たすために最低限の繋がりやコミュニケーションで情報が収集できるような小さな欲望社会が発生する。
動物的欲求を満たすことと最低限の欲望社会による二重消費に基づく、シミュラークルの実在の保証が行われる。
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このような二重消費が1990年代のオタクの創作及び消費活動で特に起こっているとのこと。
ところで、東浩紀の仕事は多岐に渡るが、その中でオタクの消費行動を元にしたマンガ・アニメとゲームやラノベのような、かつてサブカルに位置していたジャンルにおけるリアリズムと管理型社会における個人認証や監視の問題についての2つがある。
マンガ・アニメとゲームやラノベは、人や人間の営み(キャラクターも人間のようにコミュニケーションする)に関することがほとんどであり、イメージや記号や小さな物語といったシミュラークルは身体化されている。
このような傾向は西洋のハイアートにも見られる。
管理型社会における個人認証や監視の問題においては、人や身体は情報化されている。
このような傾向は日本におけるシミュレーショニズム以降にも見られる。
どこでも個人認証できるように多くの個人情報はデータベースに保存され、コンピューターで監視されることで便利になっているというわけだ。
いずれにしても、データベースとシミュラークルの二重消費を実在付ける制度を必ず持つ。
何をやっても制度を持ちうるし、シミュラークルがひと繋がりである限り実在に関することになる。
そこで、制度そのものを成立させているストラクチャーを壊すという自壊へと移行し、機能不全とシミュラークルの不成立を目論むようになる。
参考文献
東浩紀
著者「動物化するポストモダン」「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
web公開文章「情報自由論」
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