ベッドの上の夢だからだ

いつもと違うベッドで寝る。目が醒めると背中の筋肉がカチコチで痛い。原因はマットレスのスプリング(コイル)が合っていないからだと。案外、体なんて体の下にある構造、ここではスプリングの反発によってそのつど作られれているにすぎないってわけだ。

ベッドのマットレスはできうる限りどんな体型の人にも合うように作られている。つまり、平均的人間像によってその構造を管理している。そうは言っても、諸個人は平均からはちょっとずつでもはみ出すわけで、それらの人々にも対応しうるように改良を重ねる。どんなに心地よいマットレスが出来たとしても、寝てみるとどうにもしっくり行かない私を発見したりして、近代的自我なんてこんなふうに心地よいベッドに寝転がって思いついたんじゃないかな。

詳細に分析すると、
マットレスの反発を体の諸部分が経験として受け取り、それをマットレスの構造がマットレスを構成する。
仰向けになった時に背中とマットレスの境目を確定するのはかなり困難。寝る前にでも確認してほしい、思ってたような体だけを取り出すのはなかなか難しいと。

体が変わるのはスプリングが合わないというような構造の危機に限ったことではない。全く新しい構造によってもありえる。
ウォーターベッドはなんとも言えない浮いてる感じ?浮かされてる感じ?で今までの身体じゃコントロールできない、いやそもそもそれを想定することがなくなる。
従来のベッドは面で受けた荷重を直立したスプリング(コイル)を経て下のフレームから底面へ流すという、床への荷重を柱で受け応え布基礎へ流すラーメン構造と似たようなものである。しかも免震構造?!ところがウォーターベッドはいろいろな構造があるもののスプリング(コイル)間とフレームの隙間を埋めるかのごとく水が充填されスプリング(コイル)あるなしに関わらず荷重を面から分散して受け応え、その上でおおよそ考えうる限りの荷重、荷重分布、荷重移動に流動的に対応できる。
ある荷重に対応してそのつど構成された応力(構造)が即座に他の応力(構造)を可能とする水の塊に解体されてしまう。なんとも言えない浮遊感は、静的な身体や解消できない私なんて、もはやどこにもなく、そのつど構成された応力(構造)による一回きりのからだとそのからだを解体しあらゆるからだの可能性に対応するための分散し流動的な体以前の状態、こんな二重階層のからだによるものだった。。。いや、でも水はウォーターバッグと呼ばれる部分に収まっていて、あらゆる可能性なんてものがウォーターベッドの構造から想像された全体像なんじゃないかと。

ウォーターベッドは歴史は結構古いのだが、現在のようなウォーターベッドは1968にサンフランシスコ州立大学の学生チャールズ・ホール(Charles Hall )が思いつきデザインした。しかし、特許申請したところ、世界SF作家ビッグ3の一人ロバート・A・ハインラインがそれよりも早く、「Beyond This Horizon」(1942)や「異星の客」(1961)に記述していたという理由で却下されてしまう。1970年代にアメリカを中心に商品化され、日本には諸説あるようだが1978に入ってきたとのこと。日本での普及のきっかけになったのは、1986渋谷パルコ・SR6で10社ほどが集まって開かれた日本初のウォーターベッドショーらしい。
最近はウォーターベッドの構造をより進化させた低反発ゲルによるマットレスや数年前に流行ったテンピュールなどがある。開発者のチャールズ・ホール(Charles Hall )は当初、ウォーターではなくJell-O、要はゼリーやコーンスターチ(でんぷん)で作ろうと試みており、強引に言えばゲルや生分解プラスチックの先駆けだったのかもしれない。

なんにしろ、1970年代以降に登場したポストモダン的身体はウォーターベッドからだなと。


マットレス断面図

体育館・スタジオ床断面図

すぐさま分かる!コンテンポラリーダンス

なんでダンスなんてするのかわかんない。ま、正直やらなくてもいいものなんだけど、体の部分をあれこれと動かしたりしなくてはいけないことが多々あるわけで、そういうことをさせる要請は2つある。
1.ものになる。
体なんてものは、様々なものの構造によって決定されているので、ものの構造によって体を作るやり方。
音楽に合わせて踊るとか、雨が降らないので雲や雨の構造を取り入れて動くとか、舞い散る花びらが見たいとか言われてその通りに動いたりとか、もっと単純に構造に沿って体の部分を動かすとか。
2.関係を作る。
物事がバラバラでまだ形になってなかったり上手く行っていない時に体を媒介して新しい関係を作る。
共同体Aと共同体Bが関係を結ぶことになった時に両方の動き取り入れて繋げるようなこととか、それらは今だったら儀式的ななんて言われてしまっているのだろうけれども、社交ダンスとかもそうかな。
位置関係になることが多い。

もちろんこれらは、世界中の至る所、もしかすると宇宙中?で行われていて、だいたいこんな要請で行われたからだ作りをダンスと考えてみる。もちろん、各国語では違う名称なのだが。

日本でもおそらくこんな要請で動きをまとめたからだ作りは始まったのだろうけれども、もう少し詳細に分析してみよう。

能や歌舞伎のように位置関係を重んじあれこれ動くものと舞・踊のように床の構造によってからだを作るものがある。
舞(まい) すり足
踊(をどり) 足を踏み鳴らす
これらは、床の構造に沿って足を動かすことでからだを作る異なる方法。
日本における床への執着については、
「日本人は水はけのいい、すのこ状の床でないと上がることができない。そう躾られている。こうして身体化されているということがインフラ(下部構造)が自明化されていることであって、つまりインフラに個々の身体まで組み込まれているということでもある。」
GA JAPAN 78 [形式性] インタビュー・建築とインフラストラクチャー 岡崎乾二郎
磯崎新は「見立ての手法」においてゆかを詳細に分析する。
高床式住居において階級差を、竪穴住居は水田の近くに作られたので水はけを良くするための工夫があり、土間の上に敷かれた藁のゴザから板張りの床となりそれが生活の区分を作り、それらが寝殿造において高からず低からず「地上から一段<あがる>ところに生活のレベルを設定(p.156)」する床として結びつく。その床の上にゴザの進化ともいうべき畳が置かれ生活を区分する。このような床の構造がすり足や座る、あがる、またぐといった様々なからだの状態を作り出す。。。というように。

ダンスという言葉は1904(明治37年)に坪内逍遥の「新楽劇論」において舞踊と初めて訳された造語。日本舞踊とはこれ以降に作られたジャンルである。
ウマイ訳語にも見えるけど、この時期に輸入された西洋のダンスとは、 2.関係を作る。ようなものではなかったか。1883(明治16年)に完成した鹿鳴館を中心に外交政策上の必要性から導入された社交ダンス。あるいはバレエ。
床の構造によってからだを作る舞・踊とは異なる。
ダンス=舞踊がしっくりこないのはこんな理由なのかもしれない。


モダンダンスは1900にイサドラ・ダンカンによって始められます。

それ以前に西洋で主流だったのは、2.関係を作る。もので、バレエが芸術としてその中心的役割を果たしていました。バレエは、その始まりである貴族が床に図形を描いていくバロ(Ballo)、フイエ(Feuillet)による「舞踊術、あるいは記号、絵、記号による舞踊記述法」(1700)など位置関係を作るものであったし、宮廷から舞台で行われるようになる中で、その中心から見る王様との関係による舞台構成、テクニックもまた、ポワント(pointe)、ポジション(position)と言った位置を示すものであり、ある位置からある位置へ、ポワント間、ポジション間といった関係をより単純化することによる抽象化された位置関係を作るものであり、その全ての関係を作ること、つまり世界を作ること、そういう世界としての(想像上の)身体だったと言えます。

19世紀末、原因は多々あるのでしょうが、中心となる世界(像)が崩壊するようなことが起こったのではないかと思います。
映画は19世紀末に登場しました。この技術は、実際の風景を撮影した記録であっても、編集され何度でも再生(上映)できるもの、つまりその映画がどこにもない運動を作り、世界を作り出すことの出来るというものでした。
このような状態で引き起こされるのは、映画が記録したそのもの、そこで起こっている(いた)ことを見ているにも関わらず、作られたものでしかないので全くそれを見ていない、フィクションでしかないという感覚です。このことによって世界そのものを見るということが無効になる、つまり、従来の世界が想像のものでしかなく、一方で技術-構造によってその世界から切り離された視線、世界に含まれないいろいろとか私、が発見されると。近代的自我。
注意すべきことは、それを見ていないという感覚は、世界、それを見ていたにも関わらずってことから引き起こされているということです。ところが、世界から切り離されたのではなく、初めから世界に含まれないというように取り上げられ、それが現実だと考えられてしまっていることが多い。世界に含まれない、現実ではない、つまり虚構としての例えば、私とか世界から外れてる何かをイメージとして構造に与えることで作り出したシミュラークルこそがものそのものだと。それを推し進めると嘘だからこそ背後にホントのものがあるということに行き着く。

モダンダンスもこのようなプロセス経ており、世界-身体が消え、1.ものになる。のようにものの構造でからだを作り、そこに含まれない誰のものでもないこの私を発見(想像)するというものです。逆に言うと私によって構造を管理するということです。ものを感情的に踊ったり、そうすることの出来るからだ造りや、おかしな体使い、手足をやたら動かすのはこんな理由だったのかなと。
イサドラ・ダンカンからドイツ表現主義(ノイエ・タンツ)を経て1970年代後半のピナ・バウシュの登場までこれは続きます。

ところで桜井圭介は「西麻布ダンス教室」で次のようにモダンダンスを分析しています。
「「モダン・ダンス」の当初からの主題は「私(わたくし)」ということ、、、」
「「モダン・ダンス」の「モダン」ってのは「ダンス」に意味を与えようとしたってことなのね。」(p.78、第2回 ピナ・バウシュと物語な女たち、1 「モダン・ダンス」の主題は私)
「イサドラ・ダンカンあるいはロイ・フラー、、、バレエに変わるものとして始めたモダン・ダンスは、プティパに比べると、気分とか叙景とかの「意味性」が強いわけ。」(p.35、第1回 W・フォーサイスと無意味の人びと 3 フォーサイスはプティパとバランシンなしにありえない)
「2 ダンカンは世界を内面化する」(p.80、第2回 ピナ・バウシュと物語な女たち、2 ダンカンは世界を内面化する)
「「文化=男=制度=バレエ」との対立にあるもの、、、これが「モダン・ダンス」のいっとうの始まり」(p.82、第2回 ピナ・バウシュと物語な女たち、2 ダンカンは世界を内面化する)

この分析はちょっと違うんじゃないかなと思うんです。
私は、構造の露呈というか前面化、先に記述したような映画のような新しい構造の発生によって、世界(像)が消えたところに発見されたものであって、唐突に初めからあるものではない。モダンダンスでは世界や背後に想定された意味は消失しているし、何かを意味するとされてきた身振りが無意味化あるいはものそのもの化している。また、その発生はバレエとの対立で生まれたのではなくて、新しい構造によってバレエ的世界-身体を無効にして生まれた別のダンスではないかと。

ベンヤミンは19世紀から20世紀のことを扱っているのですが、有名な「複製芸術時代における芸術作品」(ボードレール 他五篇、岩波文庫)において映画の俳優について次のように書いています。
「映画において重要なことは、俳優が公衆にたいして他人を演じてみせることよりもずっと以上に、俳優が機構にたいして自己自身を演じてみせることである。」(p.86)
「たとえば窓からの跳躍は、スタジオで、組み立てた足場からの跳躍のかたちで撮影することができるが、それに続く逃走の場面は、ときには数週間も後に戸外で撮影される、」(p.88-89)

舞踏は1960の土方巽による暗黒舞踏が始まりです。(暗黒舞踏派結成は1961)
1960の日本は1955から始まった高度経済成長の最盛期へと向かう時期であり、経済成長に伴う社会構造の変化および自ら構造を作るようになったことで、自立した自信ある日本を作り出した時期です。新しい構造によって世界に頼らずやってイケルと。
また、都市開発によって古き日本の風景が消えていきました。(例.首都高、1960工事開始
そんな時期に始まった舞踏とは、1.ものになる。のようにものの構造でからだを作り、世界(像)を消失させ、ここで言う世界とは西洋のダンス(バレエ)のことであり、その中心から自立した構造-からだによる世界に含まれない誰のものでもない日本の私を作り出すことでした。逆に言えば、日本の私によって構造を管理するということです。
ここで用いられた構造は、日本の伝統芸能である舞・踊で用いられていた方法、床の構造でからだを作るやり方をヒントに床・地面の構造によってからだを作るやり方です。土着。
舞のすり足と踏むこと。舞踏。
それを日本の私によって管理します。土方巽が導入した日本的なるものとは、土方が生まれ育った秋田、東北での記憶によるものです。
「農作業からくる背骨や腰の曲がった「からだ」、あるいは、ガニ股とか老人の手ボケ。それから、子どもの頃に見たような白目を剥いた瞽女(ごぜ)とか巫女(いたこ)の「からだ」。寒さで縮こまってしまった手足や悪い姿勢。長い年月のなかで奇形化してしまった「からだ」。」(p.139、西麻布ダンス教室、桜井圭介、白水社、第3回 BUTHOと日本のからだたち)
このような古き東北、しかも個人的なものと日本は何ら関係のないものです。つまり、私にとっての古き東北というイメージを与えることによって日本の私を作り出した。

大野一雄は土方らと舞踏を始めたのですが、土方巽とは22歳離れています。つまり、1960の段階で54歳であり、その始めから老いゆく体を使わざるを得ないわけでした。1977の「ラ・アルヘンチーナ頌」(土方巽・演出)が舞踏の一つの転回点と言えるのかもしれませんが、もしかするとその始まりから老いていたので、1960の段階で土方巽とは異なっていたのかも。
その 1.ものになる。やり方とは即興であり、老いたパーツを用いてものの構造によってそのつどからだを作るのですが、むしろ老いた、老いゆく体を隠さず作っていました。老いを明らかにすることによって土方的な構造による完全なる日本の私-身体が想像されたにすぎないもの、なんだ体老いるじゃんってことになってしまうわけです。ところが嘘 だからこそ その背後にものそのもの、世界、身体、この場合ではホントの日本の私があると信じてしまう。舞踏をやる人も見る人も舞踏が日本的なものだということが嘘だとみんな分かっています。だからこそホントがあるんじゃないかと考えてしまう。これが70年代の身体作りです。

土方巽、大野一雄、笠井叡、彼らはみなモダンダンスを経て舞踏に行き着きました。舞踏はモダンダンスに対するものだとよく解釈されるけれども、日本におけるモダンダンスだったと言えるのではないでしょうか。


ピナ・バウシュは1970年代に登場し、1978に有名な作品「カフェ・ミュラー」を発表します。

1970年代にPC(パーソナルコンピューター)は登場し、プログラムさえあれば実行できるというようなシミュレーション技術が発展した時代です。インベーダーゲームは1978に、ガンダムは1979、OA(オフィス・オートメーション)という考えが生まれたのも1970年代。
人が見なくとも自動的にものや世界が出来上がる。視線の消失。正確には構造に管理される視線。そして、嘘すらもリアルに出来る。
シミュレーションの成功の秘訣とは、そのつどシミュレートするということ。このシミュレーションでそのつど集められたデータが他のシミュレートの可能性も持っていること。
固定化されたシミュレーションは、その背後にそのシミュレーションを可能としているバラバラのデータ、データベースというホントのもの(の状態)があるんだと想像してしまう。
シミュレーションが引き起こすのは、それが嘘なんだけれども現実なんだという感覚。かつて、嘘とは前述の通り、それ、現実なり世界を見ているにも関わらず、見ていないという世界からの切り離しにおいて起こっていた。ところがシミュレーションにおいては初めから切り離された状態しかない。その切り離しにおいて世界がある。
マイケル・フリードは今まさに何か起こっている、ものがあるかのように見せることを演劇的(シアトリカル)、見ているにも関わらず、見ていないという、世界から切り離されて没頭していることを没入(アブソープション)とする。ここでは没入は演劇的に内属している。(詳しくは、「経験の条件」岡崎乾二郎アンリ・マティス、p.22-24、もしくは「モダニズムのハードコア」、芸術と客体性、マイケル・フリード)
シミュレーションにおいては、没入に演劇的が内属する。もはや何も見ていないが視線を管理する構造によって世界を見る。(そんな気がする。)

ピナ・バウシュが始めた「タンツ・テアター」とは、ダンス+演劇・劇場のことである。
ピナにとってダンスとは、ドイツ表現主義(ノイエ・タンツ)、つまりモダンダンスであり、世界から切り離されたもの、虚構として成立している。没入しているということ。その嘘、没入を現実にしようとする試み、タンツで演劇をすること、そんなシミュレーションのことを「タンツ・テアター」と呼ぶ。

作品では様々なシミュレーションが行われる。こんな組み合わせがあるのかと。。。どんなおかしな組み合わせであろうと必ず成功する。しかし、シミュレーションとはそのつど集めた異なるデータをそのつど組み合わせることではなかったか。ピナの組み合わせはくっつきすぎるのだ。もっと男と女、女と椅子、無造作に並べられたように見えるカフェの椅子、明確に区分すべきじゃないかと。そのつどの組み合わせは即興(インプロと呼ばれるダンス)をしろということでもない。異なるデータでもものでもそのつどあれこれ組み合わせてみるということ即興性を作り出すということだなと。(様々な関係性を構築するということにおいてはモダンダンスがかつて捨てた2.関係を作る。つまり、バレエ的なやり方をモダンダンスに取り入れたと言えなくもない。そういや、バレエとは演劇的だなと。)

固定されたシミュレーションだからこそ、背後にそれを可能としているようなデータベースというホントのものがあるかのように想像してしまう。むしろそのデータベースによってシミュレーションのそのつど性を管理し保証しているわけだ。ここでは、そのつど切り離されたシミュレーションは全く行われていないのである。完全なるシミュレーションは嘘だとばれるのに。


ウィリアム・フォーサイスは、1970年代に活動を始め、1983からフランクフルト・バレエ団との活動がスタートします。1990年代には、その今までにない新しいバレエは最骨頂に達し、非常に高い評価を受け、1990年代に起こったコンテンポラリーダンスブームを牽引します。いち早くコンピューターによる振付も導入しました。20世紀最高のバレエ団と称されることもあります。
ダンス界だけならず、様々な方面にも多大な影響を与えました。

ウィリアム・フォーサイス&フランクフルト・バレエ団
「ARTIFACT」(1984初演、1994.11.10-11/神奈川県民ホール・第1回神奈川芸術フェスティバル)
「ALIE/N A(C)TION」(1992初演/パリ、1995.10.3-8/渋谷・東京 Bunkamura
「Eidos:Telos」(1995初演、1996.4.4-9/上野・東京 東京文化会館
フォーサイスソロ映像
勅使川原三郎による振付
「WHITE CLOUDS UNDER THE HEELS」 PART I (1994)、PART II (1995)

インスタレーション
「フォーサイス博士のマインドマシン」(1994.11.3-13/横浜 ランドマークプラザ)
Peter Welz in collaboration with William Forsythe Whenever on on on nohow on/Airdrawing
(2005.9.18-10.30/シカゴ)、映像

インタビュー
「テクノロジーと(しての)身体」(InterCommunication11/NTT出版、1995)
聞き手・浅田彰
「21世紀のダンスに向かって」(InterCommunication14/NTT出版、1995)
浅田彰、小林康夫との対談、「ダンスの現場から/Part3〜身体と都市、現代の空間の冒険」、第一夜「フォーサイスを囲んで」(1994.10.31/シアターX、両国・東京)より。
「ウィリアム・フォーサイスの世界」(InterCommunication17/NTT出版、1996)
ICCワークショップでの踊りながらのダンス解説とディスカッション(フォーサイス+ダナ・カスパーセン+磯崎新+多田富雄+浅田彰)の収録。(1996.4.1/ラフォーレミュージアム原宿、原宿・東京)
ICC インタヴュー・シリーズ 10:ウィリアム・フォーサイス」(NTT ICC HIVE
映像。

その他
イッセイ・ミヤケとの仕事多数あり。
映像
フローニンゲンの書プロジェクト参加。
詳しくは、InterCommunication2(1992)に。

フォーサイスの方法とは、従来のバレエ、全ての関係を持ちうるような世界も身体も前提されておらず、それぞれの動き、ポワント、ポジション、体の部分、音、ものが切断されたバラバラの状態から始まります。切断とは、それとか世界を見ているにも関わらず、見ていないというところに生じると前述しましたが、この場合には初めから見ていない状態、虚構、嘘、無意味な状態だということです。(モダンダンス的)フォーサイスのやろうとしていることとは、そのバラバラになっているものを次々繋いで、そのつど新しい身体や世界を作ることで、嘘を現実にしようとするシミュレーションです。
その繋ぎ方は、フォーサイスがノンリニアな対位法と呼ぶ方法で、全ての動きを管理するような中心、身体とか物語に沿って展開するのではなく、無関係なA、B、C、D・・・を、A+B+C+D+・・・のように、もちろん順番を変えてもいい、単純に横に繋いでいく。この繋ぎによってそのつど身体や世界が作られるというわけです。繋ぎの方法はいくつかあって、コンピューターを使って繋ぎをシミュレートする方法の他になぞるという方法があります。

なぞるやり方について。
動き初めはなんでもいいのですが、とりあえず動きながら、他のダンサーの動きや影、あるいは床でも壁でもいい、それをなぞる動きをする。ある動いているダンサーに他のダンサーの動きを取り入れることをフォーサイスはフィードバックと言います。そのなぞり方は、腕や足を折り曲げたり、ねじったり、くにゃくにゃです。なんで?ある動きに対して、まだ身体に含まれていない切断された動きがあるんだってことを演出するためにです。そしてその動きを今の身体に取り入れてるんだぞと。これを繰り返してあれこれ、あちこちで次々と繋げていく。(ソロ作品やラフォーレでのワークショップを見ると分かる。)このことをフォーサイスは、自己組織化とか無意識に動くこととか呼んでいます。このような絶え間ない身体の変化、世界の変化が脱構築(デコンストラクション)と呼ばれる理由です。
1990年代に特に建築というジャンルでフォーサイスが注目されたのは、1990年代前半に流行った建築におけるデコン(デコンストラクションの略称)が、建築をただ解体したかのようなものや、断片を並べただけのものが大多数でした。(かっこよかったけどね。)そんな中、フォーサイスのやり方は、断片を繋げて構築したそばからすぐに他の断片と繋ぐという、建築では難しい脱構築だったからです。

でもこのシミュレーションにはいろいろ問題もあると思うんです。
バラバラの状態から始めたにも関わらず、くにゃくにゃなぞることで切断された動きがあると演出してしまってることです。つまり、今の身体から無理矢理断片を押し出すということ。
それと、繋ぎが滑らかすぎるということです。シミュレーションとは断片と断片をそのつど組み合わせることです。もっと断片化された動きを明確に区分する必要があるのではないかと。フォーサイスのやり方は固定されたシミュレーションであり、そのようなシミュレーションだからこそ、その背後にシミュレーションを可能とするようなデータベースというホントのものがあるかのように想像してしまう。むしろそのようなデータベースに管理されているのです。


勅使川原三郎は、1985に活動をスタートし、1986にバニョレ国際振付コンクールで準優勝及び特別賞受賞します。
1985にKARASを結成。

乗越たかおは「コンテンポラリーダンス徹底ガイド」の中で、1986に勅使川原三郎がバニョレ国際振付コンクールで賞を取ったこととピナ・バウシュの初来日公演をふまえて「日本におけるコンテンポラリー・ダンス元年」としています。(乗越たかおは「コンテンポラリーダンス徹底ガイド」は結構重要な本だと思う。1986以降のコンテンポラリーダンスシーンのシミュレーションだから。)
実は多くのダンサーが、KARASのワークショップを受けており、ダンス経験がなくとも踊れるようになるそのメソッドは、1986以降の国内外問わず、ダンスシーンに最も影響を与えてるとあえて言うことにします。
しかし、勅使川原三郎+KARASがダンス批評、特に現代思想の方からの批評で取り上げられることはほとんどありません。またそのメソッドが解析されたこともほとんどないと思います。
1986以降に登場したモダンダンスでもない、バレエでもない、舞踏でもない、伝統のもでもない、実はでもある、そのダンスのメソッドについて取り上げたいと思います。

その方法とは、全ての関係を持ちうるような世界も物語も身体も前提されておらず、動き、様々な動き、バレエな動き、モダンダンス的な動き、体の部分、音、光、空気、全てのものと言ったバラバラな断片を絶え間なく繋げて、そのつど身体や世界、現実を作っていくというシミュレーションです。
上述のピナ・バウシュ、フォーサイスとこのシミュレーションは何が違うの?それは繋ぎの処理です。実は、ピナ・バウシュは演劇的な、フォーサイスはバレエ的な(身体で)処理をしています。勅使川原三郎がこの繋ぎに用いるのは、より単純に普通の人の体の仕組み、呼吸を吸って筋肉を緊張させ、吐いて緩めるというやり方です。演劇的やバレエ的な体はたしかに超絶的に動くことができるかもしれないが、特殊であるがために繋ぎの自由度はかなり限定されているわけです。多くのダンスはその繋ぎに超絶さを求めるがためにより特殊な身体を作ってきました。でもよく考えたら、普通の人の身体の方が自由なわけで、それまでこんな単純なことなんで思い付かなかったのかと。
ダンス未経験者でも踊れるようになれるのは、こんな理由であるし、呼吸に合わせて筋肉を緊張/弛緩させるという多くのコンテンポラリーダンスで使われている方法は、普通の人が当たり前にやってることだったが故に、それを誰が始めたのかは全くわからない。

どんなふうに繋げるの?
吸って緊張させることと吐いて緩めることは異なる動きです。その繋ぎ目を滑らかにするのと素早く切り替える、この2つやり方がある。呼吸は限界まで吐くと吸わざるを得ない、その逆も同じ、それを上手く利用する。

全身の筋肉を吸いながら隅々まで伸ばし、吐いて縮めるor緩める。
繋ぎを滑らかにして移行する方法と吸って、吸って吸って、、、ストンと吐いて一気に脱力するやり方。
視覚じゃ確認できないほど小さな部分の緊張/緩め。
指先、ほっぺ、瞼、あるいは、背中のどこかポイントを決めたとこ、それを体中のいろいろなところで試す。
全身、細部、あるいはその中間、他には間接とか、あるいは離れた部分(お尻の右側と左手の肘とかのように、もしくは何箇所も)でも行ったり、それを繋げたり。

走り方の一例。(「風」と呼ばれる。)
まず吸って、前傾姿勢で吐き緩みすると足が出るので、それを利用してかがんで行くように前進し、その流れを持続しながら滑らかに、風のごとく、吸って伸びながら、背骨を立てつつ、前進する動きに移行し、再び滑らかに吐き緩みに、、、これの繰り返しをスピードを超高速にしたりものすごく遅くしたり、曲線を描くようにあちこち動く。波線を考えてもらえばいい。
全速力で走っていって急に止まる、角度を変える、歩き出すなど別の動き入るやり方。
切り替えをとにかく素早くする。
スタジオ内で30人ぐらいが各々勝手な方向に直線的に歩き出し、人、壁、何かにぶつかりそうになるとキュッと角度を変える。密集しているところではキュッキュッキュッキュッ、、、と素早く切り替えなければならない。
全速力で走り、全速力で走っている相手のよけ方。
弧を描くように滑らかによけるやり方とキュッキュッと角度を変えるやり方。
意外性の予測。

自分の動きに離れた所にいるダンサーの動きをなぞるように繋げてみたり。繋ぎ目のタイミングを合わせたり

吐いて脱力着地、吸ってジャンプ。
吐くことか吸うことどちらかに重点が置かれます。
これを足を交互に行う。
着地する足の逆足は、床を滑るように任意の場所に抜きます。バレエのグリッサードにやや似ています。これは(KARAS的な)ステップと呼ばれています。

これは一例にすぎないけれども、こんなふうにいろいろ試してそのつど身体を作っているわけです。
とにかくこの繋ぎがKARASのダンサーは超絶レベルなんです。普通の人の体の仕組みを使っているので、1990年代に高評価されていたバレエやヨーロッパのダンサーより自由度が高く、動けていると思います。フォーサイスが次の動きを繋げる時に、今の身体、要はバレエ処理された身体に含まれない断片を演出してしまっていると前述しましたが、そのような過剰演出はありません。

しかし、呼吸に合わせて筋肉を緊張/弛緩させるという多くのコンテンポラリーダンスで用いられている方法は、ある問題に直面していることが多い。それは、繋ぎが滑らかになりすぎている、素早くなりすぎているのです。動きAと動きBは、もっと明確に区分されなくてはならない。そもそも、その区分がなければ超絶さもわからない。シミュレーションとはそのつど繋げることであって、スムーズになりすぎると固定されたシミュレーションになってしまう。そのようなシミュレーションだからこそ、その背後にシミュレーションを可能とするようなデータベースというホントのものがあるかのように想像してしまう。むしろそのようなデータベースに管理されているのです。
超絶ダンサーが減りつつあるのはこんな理由なのかも。


珍しいキノコ舞踊団は、1990に日大芸術学部在学中だった伊藤千枝、小山洋子、山下三味子の三人によって結成されたグループです。
1990年代最も東京っぽいポップでカワイイダンス?をしていたと思います。個人的には好きなグループの一つです。
公演場所は劇場の他にも、美術館の中庭、ギャラリー、カフェ、オフィス、倉庫、ビルのエントランスなどなど。

「〜の価値もない」(1995.2/イーストギャラリー、恵比寿・東京)
「電話をかけた。あと、転んだ。」(1996.11.7-10/ランドマークホール、横浜、第三回神奈川芸術フェスティバル)
「もうお陽さまなんか出なくてもかまわない」(1997.3.7-9/パナソニック・グローブ座、新大久保・東京)
「「私たちの家」」(1998.3.14-16/ラフォーレ・ミュージアム原宿、原宿・東京)

他にも見てると思うんだけど忘れた・・・。「〜の価値もない」で初めて見たのですが、それまでのコンテンポラリーダンスにありがちな仰々しさが全くなくて、雑誌CUTIEに出てくるようなかっこで1995当時の東京の乾いたポップでカワイイ感じの女の子的感覚のダンスでした。それまでのダンスシーン?でこういうことするダンサーは誰もいなかったと思います。この当時はかなり衝撃的な事でした。客層も、いわゆる芸術好きや80年代的な人はほとんどいなく、ラフォーレに行くような若いオシャレ層中心だったと思います。

フリル(ミニ)」(2000.11.24-12.3/DELUXE、西麻布・東京)
フリル(ミニ)wild」(2002.3.26-3.31/原美術館中庭、品川・東京)
デザイン集団 生意気 が美術を担当したりしている。

NHK教育の子ども向け音楽番組「ドレミノテレビ」の振付。(2003.4-2006.3)

その方法とは、それまでのダンスが素材として使ってこなかった変な動きとか日常の動き、たまたま見つけた動き、とにかく今までのザ・芸術的なダンスがシカトしてきたいろんな動き、もの、そう言った断片を繋げて、今までにない身体や世界を作ろうみたいなこと。(そんなデカイことは本人達は一切言っていないけど。)もっと些細な出来事とでも言うべきかな。

伊藤千枝「、、、それが面白くて。ダンサー以外のものからは、やっぱり、拳法とか。普段から面白いなって思うもの全部拾っちゃう。」
宮沢章夫「、、、靴下を脱ごうとして前へオットットって出ることあるじゃん、人って。その歩き方が面白かったね。」
桜井圭介「そういうものをみんな「ダンス」って呼ばなくちゃいけない。」
(p.9、「電話をかけた。あと、転んだ。」のカタログの対談より。/1996)

珍しいキノコ舞踊団は結構、ダンスのテクを持っていて、断片の繋ぎは、おかしな動きの断片をくっつけてはいるものの、既存のいろんなダンステクで処理しています。むしろそのテクを超絶にしないようにしている。あえて、もっと単純に繋ぐ。こんなダンスで軽やかに繋ぐ出来事あってもイイ!他の繋ぎ方でもイイけどね。ってことかな。既存のダンステクだって現実なんだよと。
ダンスシミュレーション。

このようなシミュレーション系用いる多くのダンスグループ、ダンサー、振付家が直面している問題があります。この繋ぎが滑らかになりすぎている、素早くなりすぎているのです。つまり、断片と断片のシンクロ、コンテンポラリー化。
原因は2つあって、より単純に繋いでいこうってことと、演劇的でも、バレエ的でも、普通の人の体的でも、あるいは他のダンス、舞踏でもヒップホップでもいいです、そのような既存のダンス身体を用いること自体が、その身体によって全ての動き、繋ぎを管理しているので、あえて下手くそにしたり幼稚にしたりする傾向です。コドモ身体化。


コドモ身体とは、桜井圭介が2005頃?から言い始めたダンスにおける身体のあり方。正確には繋ぎの方法。2000年代の日本におけるコンテンポラリーダンスブームを読み解く重要なキーワード。ただこの身体はシミュレーション系と後述するノイズの中間に位置しているとも思います。
嘘を現実にするシミュレーションを完全なるものにするには、従来の世界、身体じゃないもの、つまり大人じゃないものとしてのコドモ、未熟で立つこともままならぬ何も理解してない世界を知らないから、そのコドモ身体で繋げばいい。
でもさ、つかまり立ちってあるじゃん。赤ちゃんから幼児への移行期に立ち上がろうとするんだけど、あれって教えてないのにいろんなところに手をかけてスッと立つ。余計な動きなしに。それって未熟なの?単純にそのつど組み合わせるだけ。手がかりからだよね。

舞踏は特に日本ということを強く意識していたと思うんですが、ある意味で同じような表現が今また起こってるとしたら、やっぱり日本だからということかもしれない。、、、ポスト近代的なものが、突出して、奇形的に進化してしまった場所として日本というのかな。」
(p.45、90年代美術の「未成年」から「コドモ身体」へ 松井みどり×桜井圭介、美術手帖2005.12)

かつて舞踏が世界から切断されたものということのために虚構の日本のイメージ用いたように、またそれが繰り返されているのではないか。コドモ身体という繋ぎで。日本のシミュレーション

幼稚化されたシミュレーションの行く末は繋がないこと。そういう構造の危機、いや不全があちこちで起こり始める。イメージが与えられない。シミュレーションの不成立。シミュラークルの消失


1995ぐらいから、構造の不全があちこちで起こります。
あの大きな地震で明らかになったのは、中心が構造、インフラ、システムを管理仕切れてなかったことでもないし、構造によって切断された世界が作られていたことでもない、構造が不全だということです。全てがバラバラな状態において生きていくしかないんだということ。
構造が不全だということは、特定のイメージを与えられないので、シミュラークルも消失します。また、共同体も、虚構も、オタク的なものも成立しない。
特に意義もなくバラバラのまま集まっている状態。そんな状態で求められるのは、そのつど構築可能な不可視の管理システムです。
ポケベル、ケータイ、インターネットはそれを可能とする便利ツール。渋谷という街自体もそうです。1989年までの虚構性、1990年代前半の異なる共同体やもの人をそのつど繋いでいくストリート性、そういう性質が上手くいかなくなり、ひたすらバラバラのままあれもこれも意義なく集められ始めました。景観も人も職種も趣味も情報もなにもかも。1995ぐらいまではあった渋谷の文化性とかいろいろ見たい的な欲も消え、特に意味なく集まる、下手すると家にも帰らず、集まる、そういう場所になります。これは渋谷に限らず、池袋でも大宮でも柏でも町田でもコンビニの前でも同じ。
構造の不全に伴ってあちこちで不可視の管理システムがそのつどとりあえず発生します。

この不可視の管理システムは、見えないので見える部分はバラバラの状態であり、オン/オフ状態があり、いつでもオフにして相手や情報を遮断できるのが特徴です。それぞれの部分を区分しつつリンクできる。見えないが故に怖い、一方で安心できるというものです。90年代の渋谷の魅力はそういうとこにあったのかもしれません。
しかし、不可視の管理システムが見えないまま繋がり続けると部分の区分が危うくなるので、今度は至る所でシステムへの疑念と切断が行われます。かつては、構造の背後に、よりホントのそのものを想像してしまうという方向に向かうことが多かったのですが、構造の不全によってシミュラークル(模像)が消失している状態においてはそのような想像すらできない。むしろひたすらあちこちで切断が行われます。
不可視の管理システムとはそのつど構築できるような、いやそのつどにしか構築できなければならないのです。

音楽批評家の佐々木敦が1994?から使い始めたUNKNOWNMIXという言葉があります。
当時、渋谷のとあるビル、タワレコの近く(当時はトイザラス?ビル自体あったっけ)、有名古着屋の上、の一室にパリ・ペキン・レコーズというレコード屋(もちろんCDも売ってた)が、1993?から1995まであって、言ってみればUNKNOWNな音楽を扱っていた店で、店側の勝手な分類、例えば、「現地録音」「脱力音楽」「音響彫刻」みたいな分類がされていて、とは言ってもその分類に何か厳密な定義付けがあったとは必ずしも言い切れず、かと言って適当でもなく、とりあえずそういう系のものとして音楽が集められていた。どのジャンルにも属さない音楽が特に意義を持たない仕組みに集められる、つまりバラバラのもの、点在するあれやこれやがそのつどの不可視の管理システムによって集められるということ。UNKNOWNMIX。
UNKNOWNMIXはこのパリ・ペキン・レコーズと大きく関わりながら、当初はUNKNOWNな音楽を紹介する講座(一回目はパリ・ペキン・レコーズ、二回目は阿佐ヶ谷の専門学校?、二回目以降はたぶんほとんど参加したかな。)で、後にP3(曙橋・東京)でのライブへと進化する、イベントかつキーワードでした。暴力温泉芸者(現在、作家の中原昌也の音楽ユニット)が何度か参加しています。それはノイズと分類される音楽なんだけれども、ノイズと言ってもテレビの砂嵐画面のザーっていう音を使ったものではなくて、断片化したいろんな音、サンプリングされていたとしても元ネタ不明なぐらい変容した音、いや元ネタが分かるとしても切り取られた音、とにかくいろんな音が集められていて、その集め方がREMIXではなくUNKNOWNMIXで、特に意義も現実作り出そうというようなこともなく、一方でそれぞれの音は区分されたままの状態こそがノイズだと。

ノイズ。特に意義もなくバラバラのまま集まっている状態。そんな状態で求められるのは、そのつど構築可能な不可視の管理システム。
こんなからだやダンスってまだないよね。


椹木野衣レントゲン藝術研究所における展覧会、ANOMALY(1992)でポップを、ANOMALY2(1995)でノイズを扱っている。しかし、そのやり方はノイズ的(とされる、実際はシミュレーション作品)素材を展覧会というやり方で繋げたシミュレーション。不可視の管理システムで維持されるようなノイズ状態じゃないと思う。)


1990年代にやたら身体云々ってのが増えたのは、身体が失われたからだなんてネガティブな理由が多かったのだけれども、むしろ新しい身体を作る試みが増えたとポジティブに考えてみる。
全ての関係や運動を集中管理する身体、世界と言ってもいい、は、19世紀末1970頃に既に失われていて、それでもなお、虚構の身体イメージが用いられ、むしろ積極的に使い、それによって何かどこかにホントの身体-世界があるかのように想像されてきた。とは言っても虚構は虚構なわけで、1980年代後半から1989までに虚構の世界像、身体像はどうにも通用しなくなってしまった。原因は、世界の終わり的出来事がいろいろあったこととテクノロジーの進化や様々なオートメーション化を従来の世界や身体じゃ管理できない、追いつかないということが起こってきたから。そこでテクノロジーや構造に対応する、あるいは管理される、あるいは一体化する身体や世界、つまり嘘を現実とすることが求められるようになる。その方法の一つとしてシミュレーションがある。
1981にジャン・ボードリヤールが「シミュラークルとシミュレーション」という本を出す。この本が1980年代のNYからはじまったシミュレーショニズムというアートの傾向を生み出すきっかけになった。日本でもこの展開は1990頃から始まり、2007現在まで続く大きな傾向なんだけれども、NY的シミュレーショニズムをそっくりそのまま、シミュラークルとして、輸入したのではなくて、世界的な展開をしていたシミュレーショニズムとは、全く離れたシミュレーションを作り、むしろその独自展開が近年、世界的に評価されている(とされている)という状況が起こっている。
その違いはどのようなものなのかというと、虚構を現実にするテクの違い、虚構と虚構、断片と断片の繋ぎの処理の違いと断片の選択の違いにある。
NY的シミュレーショニズムは、従来の芸術、世界や身体を無効とするような大量生産品や無意味な記号や大衆化したイメージ・広告など、アートの世界ではかつてポップと呼ばれた断片を従来の美術的処理によって繋ぎ、現実にしようとする。
伝統芸術とそこに含まれないポップ・アートという構図は、デュシャン(レディメイド)やベンヤミン(複製芸術)が20世紀初頭から扱ってきた、おそらく20世紀美術とはその切断に関することのみ、それがここでも使われているということだ。ポップ・アートとの繋がりが見えるのはこんな理由なんだなと。
日本で展開したシミュレーショニズムは、NY的シミュレーショニズムが扱わなかった素材、これは、西洋中心の20世紀美術が常に従来の美術、世界や身体から外れたものという構図でしか考えられないことに対して、1955からの高度経済成長を経て1980年代のバブル期に至るまで、独自の生産構造を持ち、発展してきた、そういう自律性を持とうとしてきた日本においては、世界から切断されたという構図自体がもう1960年代にはなかったとしておこう、そういう素材や日常に関することや趣味的なもの閉鎖的なものオタク的なもの、落書き、ゴミ、と言った素材を断片として繋ぐ。その繋ぎは、NY的シミュレーショニズムが超絶的テク、とは言っても密かに美術的処理をしていることに対して、美術的処理をむしろあからさまにし、超絶にせずにより単純に繋ぎ美術シミュレーションを作るやり方、普通の人の体の仕組みや新しいテクノロジー用いたやり方など、とにかく西洋の美術的処理じゃない繋ぎならなんでもです。

1990年代以降のアート、日本におけるシミュレーショニズムについて紹介する前に、まず1980年代後半のNY的シミュレーショニズムについて参照程度に紹介します。


NY的シミュレーショニズム

ジェフ・クーンズ
NY的シミュレーショニズムの展開(1983、ピーター・ハリーの論文)より早くシミュレーション作品を作り始めた。
例えば、スターやアニメキャラ、みんながカワイイというもの、そういうポップ・アイコンを彫刻にする。美術的処理による現実化。
自らがポップ・アイコンに扮し美術作品となる。作家自身が体を張って、一見そう見える、作品において身体とは、このようなシミュレーションによって獲得されるにすぎないと。

The new」シリーズ(1979-1987)
東京都現代美術館に所蔵作品あり。
「2段による掃除機の転置:新品のフーヴァー・コンヴァーティブル、新品のシェルトン・ウェット/ドライ・5ガロン、新品のシェルトン・ウェット/ドライ・5ガロン」(1981?-1987)
Michael Jackson and Bubbles」(1988)
Made in Heaven」シリーズ(1989-1991)
イタリアのポルノ女優チッチョリーナとの作品。
作品画像集
Jeff Koons - A Collection of Images
Gagosian Gallery - Jeff Koons - Exhibitions
The New Yorker


ジェフリー・ダイチ企画による「POST HUMAN」展(1992/ローザンヌ、他巡回)は、身体の新しい有り方を追求するものとしてターニングポイントとされることの多い展覧会です。
HUMANに含まれないポップや化け物、動物、卑猥さ、などを用いて、新しい身体や世界を作ると言った新しい人間像のシミュレーション。超絶テクで繋げている一方で、密かに従来の美術的あるいは身体像的処理をしている。2007現在まで、欧米を中心に多くの作家に受け継がれている傾向。

参加アーティスト
ロバート・ゴーバー(Robert Gober)
1976-2007 works」(2007.5.12-8.14/Schaulager、バーゼル・スイス)、展覧会映像はこちら
デ・ジェンダリズム−回帰する身体」(1997.2.8-3.23/世田谷美術館
フェリックス・ゴンザレス-トレス(Felix Gonzalez-Torres)
2007 ベネチアビエンナーレ アメリカ館」映像。
ダミアン・ハースト(Damien Hirst)
WHITE CUBEによる作品画像集
マーティン・ホナート(Martin Honert)
作品画像12展覧会(2007.2.11-4.22/ドレスデン国立美術博物館
マイク・ケリー(Mike Kelley)
Craft Morphology Flow Chart」(1991)、有名な作品
トニー・アウスラー+マイク・ケリー展」(1995.5.11-6.18/ワタリウム、東京・神宮前)
Categorical Imperative and Morgue」(2000.6.16-9.3/Van Abbemuseum、オランダ)
ポール・マッカーシー(Paul McCarthy)
tomato heads」(1994)
apple heads」映像(1998)
展覧会(2007.5.27-10.28/Middelheimmuseum、アントワープ)
Head Shop/Shop Head」(2007.3.9-6.17/Moderna Museet、ストックホルム)
Painter」映像(1995)
その他作品画像映像
マイク・ケリー+ポール・マッカーシー共同で
マイク・ケリー+ポール・マッカーシー展「SAD AND SADIE SACK US MC
パフォーマンス ゲスト:中原昌也(1997/P-HOUSE
Fresh Acconci」(1995/MACBA
Jeff Koons森村泰昌中原浩大など

この系統の他の作家
身体を拘束してドローイングすることで超越的身体を求める姿勢が、後のシリコンによる変装、化け物的なものとの融合まで一貫している90年代のスター的存在になったマシュー・バーニー拘束のドローイング」(1987-、2005/金沢21世紀美術館)「クレマスター」(1994-、1995/水の波紋展、ワタリウム企画、東京・青山が国内初上映?)、おちんちんが鼻になっている子供像(1994?、1996/P-HOUSE、東京・代官山)のディノス&ジェイク・チャップマン、自らが演じる脱ポップアイコン的身体像「pop」のギャビン・ターク、整形によって身体改造する(1990-)オルラン森万里子、など。
(美術手帖1995.1に以上のアーティスト達特集あり。)


日本におけるシミュレーショニズム

作家よりまず批評家の仕事を紹介しちゃうってのもあれなんだけれども、、、やっぱり椹木野衣の仕事なしには、1990年代の美術云々は難しいんだろうな。1991に出版された「シミュレーショニズム」が、椹木野衣の仕事のベースに今もまだなっているし、1990年代から2007現在に至るまで日本のアートの傾向として影響をもたらしているのは間違いないと思う。
著書「シミュレーショニズム」は、NY的シミュレーショニズムの紹介本のようなシミュレーションのシミュレーションではなくて、西洋の伝統芸術はもちろん、NY的シミュレーショニズムにも拾われないような情報化された断片を繋ぐシミュレーションそのものだったと言える。この作業こそが彼の仕事であり、それは一貫している。
椹木野衣は、芸術において、日本を悪い場所とか酷い条件のように言っていて、それは、歴史も制度もマーケットも碌にない、あるいは初めからないものとしているアナーキズムな状態だと。そのような状態における情報化された断片を美術として繋ぐこと、そういう美術シミュレーションをしてきた。このような自律的シミュレーション、つまり、世界から切断された、あたかも独自に見えるということに日本を見出す。
情報化された断片を美術としてスーパーフラットに作ることでコンテンポラリー=現代を作り、それに日本を見出す。これが椹木野衣のシミュレーション。

やはり日本におけるシミュレーショニズムの展開を担ってきたレントゲン藝術研究所におけるキュレーション「ANOMALY」(1992)
本「日本・現代・美術」(1998)
展覧会「日本ゼロ年」(1999.11.20-1.23/水戸芸術館現代美術センター、水戸・茨城)

「909-ANOMALY2」(1995.2.4-4.2/レントゲン藝術研究所
この展覧会はノイズを美術とするシミュレーションで、1994頃に佐々木敦が言い始めたUNKNOWNMIXとそれに関連するノイズに多少なりとも影響を受けているとは思う。参加アーティストにも山塚EYE、大友良英、灰野敬二、暴力温泉芸者という面々がいることからしても。
シミュレーションとしては、この試みは成功だったと言えるが、ノイズとして考えたら失敗なのではないかと。

制度も歴史もない悪い場所をアナーキズムな状態であり、自己崩壊していると椹木野衣は言っているのだが、例えば、日本の美術シーンを見ると、本来ないはずの制度や歴史がむしろ強化されていて、みんなそんなものは虚構なんだけれども、そうした方がいいからというシニシズムに支えられていると思う。
むしろシミュレーショニズムの行く末、世界から離れて現実化、あるいは独自の世界や身体を作ろうとすればするほど、繋げなくなり、つまりシミュレーションを成立させる構造が不全になり自己崩壊した一見アナーキズムな状態に陥るのでは。つまりノイズ化。


ダムタイプについて。
新しいテクノロジーが引き起こすこととは、それ、世界を見ているにも関わらず全く見ていないという切断された感覚だ。ところがその時に、世界に含まれないものとしての私をそのテクノロジー、構造に発見してしまったのが近代的自我であり、近代的人間像だった。とは言っても諸個人は各々異なるわけで、よりマイノリティな私を発見しようとすることがあちこちで起こる。
その私が例えば病気であれゲイであるような現実のことでも、あるいは、キャラであれ肩書きやドラッグクイーンであるような嘘のことでも、あるいは映像化されてたり噂のように情報化されていることでも、それを私のアイデンティティーと採用すると必ずそうではないホントの私があるというように想像してしまう。つまり、現実のことであれ虚構としての私を生きるしかないんだってことになる。
ダムタイプが試みたことは、そんな虚構を現実にするというシミュレーションだと言おう。
現実の人、嘘の人、情報化された人、あらゆる切断されたとする人、それらを繋ぎ、新しい人間像、身体、世界を作るシミュレーションだと。

「ph」(1990初演)
コピー機を模したセット内で行われるパフォーマンス。
テクノロジーが世界を作るのならば、全てのマイノリティ、もの、音、光をコピー機に全てぶっこむことでコピーという現実を作るシミュレーション。
ただ常によりマイノリティを作ることで、このシミュレーションは続くのではないかと思う。
「S/N」(1993-1998)、詳しくは、
舞台の上座から下座まで続く壁が作られ、その壁の上で繰り広げられるパフォーマンスと壁に映し出される映像、その壁の前で繰り広げられるパフォーマンスから成る。聾唖者、黒人、女、男、ゲイ、HIVキャリア、ドラッグクイーン、風俗嬢、ストリッパー、映像化された諸個人、情報、いろいろなもの、このそれぞれの断片が嘘なのかホントなのかよくわからないのだ。というのもこれらの繋ぎは虚構だから。虚構のシミュレーション。
公演後のシンポジウムで、
質問者「その壁の後ろはどうなってるんですか?」
古橋悌二「ラブラブな感じ」
OR」(1997-2002)
Voyage」(2002.8.23-12.1/NTT ICC、東京・初台)

古橋悌二LOVERS―永遠の恋人達」(1995.9-/キヤノン・アートラボ企画展)
中央に置かれた数台のプロジェクターが回転しながら四方に映像を投影する。
文字と裸で走る男女は立ち止まり、こちらを向き腕を広げ見る者をまさに抱きしめるかの時に後ろへと倒れると同時にスッと消える。テキストも人も映像という情報化によって接続され、後ろに人が倒れて消える時に分かるのは、見る者と映像は接続できないということではなく、むしろテクノロジーによる情報においてのみ生き、そこで繋がる愛があるんだってこと。


1990年代前半に、ヘアヌード解禁ブーム?(宮沢りえ「サンタフェ」/1991)から少し遅れて、写真新世紀などからオンナのコ写真家が多く登場します。その特徴は、作家性がないということで、セルフヌード系、身近な関係系、平坦な風景系などに分けられます。
世界から切断された視線として、日常のこととか意味のないこと、何気ない風景、ズームアップ、などは、何を見ているのかわからないけれども、そういう切断された視線を発見する作家性ってのがあるのですが、1990年代のオンナのコ写真家達の写真はもはやそういう視線すらない、ゴダールがフィリップ・ガレルの仕事を呼吸をするように撮ると言ったように、撮影しようとする。シャッターを押せばいい。つまり、作家性が希薄、もしくはない。これは、対象の迫真性やそっくりそのまま写してやろうというリアリズム傾向ではない。写真という虚構を現実にしようとする写真そのもののシミュレーションだ。写っているものが嘘であれそういう現実だということ。
篠山紀信撮影による宮沢りえ「サンタフェ」(1991)にはポップ・アイコンという虚構を世界とは無関係であるその体としての裸によって現実を作ろうとするシミュレーションだったが、オンナのコ写真家達は、自らがヌードになり写真に収まることで、一体その写真は誰が撮っているのか?まるでカメラが勝手に撮影したかのような視線の消失を獲得と世界とは無関係であるその体としての裸によって現実をシミュレートする。あるいは、トモダチとかカレシとか家族とかを記念スナップのように撮影することで。
長島有里枝、家族のヌード写真(1993、urbanart#2)
蜷川実花HIROMIXなど。


飴屋法水は、ホンモノの血液や精液と言った体の情報を、交換、混合などによって新しい関係、身体、世界、公共をシミュレートします。
テクノクラート名義で
「Comming Out」(1993、レントゲン藝術研究所、東京・大森)
130名から採血した計50リットルの血液にHIVを混入し展示。
「セックス・アパルトヘイト」(1994/「人間の条件」展、スパイラル、東京・青山)
「パブリック・ザーメン」「夫婦生活交換プロジェクト」「血液交換プロジェクト」
(1995.2.4-4.2/909-ANOMALY2、レントゲン藝術研究所、東京・大森 )
「パブリック・ザーメン」
909-ANOMALY2に関わるアーティスト、ディレクター、キュレーター、ライブ・パフォーマーから採取した精子を冷凍保存し展示・販売する。精液とは体の情報であり、販売という交換による提供者、精子、購入者、販売者、所有者などを繋ぐ新しい人間像のシミュレーション。
名義不明で
「血液交換プロジェクト」(1995.6/大阪)

でも、繋がりすぎる新しい関係に疲れたらペットでも飼ってみるのもありだなと。

八谷和彦の「視聴覚交換マシーン」(1993)は、お互いの見ているものを交換する装置です。より正確に言うと、他人の見ているものではなくて、他人に取り付けられたカメラによる映像をメガネタイプのモニターで見ている。かつては新しいテクノロジーによって世界から切断された私の視線を発見してしまうということだったのが、テクノロジー、構造によって他者、特に意思も働いていないような他者の視線を獲得することによって生じる新しい関係や身体のシミュレーション。
PostPet」(1997-)は、コンピューターの中で飼うペットがメールを交換してくれるメールソフトです。情報が送信/受信のためにここで選択するルールは、メールを交換すると言うことであり、用意されたペットがユーザーそのものであるかのように、相手のところにメールを運んでくれるのですが、おもしろいのはそのペットが成長すると勝手にメールを書き送信することです。
「実は『PostPet』も「演劇のゲーム化」という考えから作られたものなんです。、、、眼前の舞台で俳優が演じるという演劇にある要素を、なんとかコンピューターに取り入れられないかと思った結果なんです。」(ユリイカ 2006.6月号 特集 任天堂、「僕らが任天堂に教わったこと」 鴻上尚史×八谷和彦)

伊藤ガビンは、ANOMALY(1992、レントゲン藝術研究所、東京・大森)において、10年間食べた量のインスタントラーメンで「1972-82セルフポートレート」という高さ数メートルの自分の像を作りました。インスタントラーメンはお湯で何度でも壊して造形することができるわけで、つまりこの作品では反復可能なからだが一回きりの10年間の出来事を作っているのです。
「パラッパラッパー」(1996、シナリオ担当)など
Processing 女子美術大学での田中孝太郎との授業


ICC(NTT InterCommunication Center 東京・初台)は、1990からスタートし、1997にオープンした文化施設です。国内外問わずメディアアートと称されるものの発展に重要な役割を果たしています。
私達の様々な経験や行動、例えば、視線、声、手をかざす、動き、心音、体温、何らかの入力と言った断片が新しいテクノロジーによって、同一人物の体の細部同士で、あるいは他者と繋げることで新しい関係や身体をシミュレートします。

このような方向性は、ICCと同じようにメディアアートと称されるものの発展に重要な役割を果たしてきたキヤノン・アートラボ(1990-2001、キュレーター四方幸子/2007現在ICC所属、阿部一直/2007現在、山口情報芸術センターキュレーター)でも見られます。

三上晴子の「Molecular Informatics-morphogenic substance via eye tracking」(1996.3-4/キヤノン・アートラボ企画展、代官山ヒルサイドプラザ、東京・代官山、2007現在Ver.4)は、視線入力装置を用いて観客の視線の軌跡がドットでリアルタイムに投影され描かれるとするものです。
私の見るという行為がテクノロジーによって形作られ、認識となる。つまり、経験を構成する身体がそのテクノロジーに替わられている、というかそもそもテクノロジーこそがからだなんだと。
この作品は結構、目を動かすのが難しくて、描かれたドット軌跡を見ようとすると目を動かさなくてはならない、視線入力による軌跡というシミュレーションが完璧であればあるほど、このシミュレーションにならない視線入力データ、無数の視線の束、データベースを想像してしまう。いやむしろ、このデータベースによってシミュレーションは管理されている。
自分の心音を無響室で聴くと言う「World, Membrane and dismembered body」(1997/ICC常設作品、東京・初台)、重力を第6の知覚、三半規管の制御による情報を用いた「Gravicells」も同じような仕組みだ。


マース・カニングハム

「オーシャン」(1998/新潟市民芸術文化会館)は、ホントにスバラシイ作品でいろいろ書きたいのだけれども、正確な情報があまりに今、手元にないので、季刊InterCommunication29 ダンス・フロンティアマース・カニングハム岡崎乾二郎の対談を読んでもらうのが一番だと思う。
今、「オーシャン」のことを思い出してみても、海が未だ続いている感じ、音とか風景が体を通り抜けていく。何度でもこの海は反復できるんだなと思い出す度にそのことは分かるんだけれども、それを止めた時にせつなさ?くやしさ?よくわからないけどそういうもんが湧き出てくる。もうこれを二度と見ることはできないんだなぁと。仮に再演されたとしても、自分が今住んでいる北海道でこの「オーシャン」が見られる可能性は約0%。こっちの芸術関係者なんて誰もマースのことなんて知らないみたい。
ナムジュンパイクが死んだ後にワタリウムでやったパイク回顧展にパイク+カニングハムによる「fish tv」(1975-1988)が出展していて、その映像(NHK日曜美術館の放送録画)を個人的に見るしかできなくなってしまった。水槽の後ろにテレビが置かれているものが2つあって、動くストリートにマースが合成されている映像がループしており、マースはストリートを歩いているかのように、ブレイクダンスのウォーキングのごとくそこで足を動かす一方で、腕、手で水槽の魚の動きをする。ん?ビデオなのに手前の水槽の魚の動きどうやってトレースしてんだ?この録画の左側の水槽のマース映像と手前の魚はたまたまシンクロしているように理解したんだけれども違うかもしれない。何にしろマースの身体は、水槽とテレビに映し出させているもの(ストリート)に引き裂かれていて、水槽とストリートをループする身体は複数だと言うこと、つまりそのループから別のループへマースの脱力ダンスのごとく抜け出すことができるのだ。

トリシャ・ブラウン

トリシャが再評価?されたのは、ここ数年(現在2007)のことで、自分が東京を後にしたことのことだから、映像やドローイングでそれを見るしかないんです。

トリシャ・ブラウン-思考というモーション
監修 岡崎乾二郎 
文 岡崎 乾二郎トリシャ・ブラウンマース・カニングハムウィリアム・フォーサイスジョナス・メカス 、石井 達朗 、中谷 芙二子黒沢 美香岡田 利規 、木下 哲夫 、中井 悠
artictoc volume1にインタビューあり。
I love my robots」(2007-)
トリシャ・ブラウン岡崎乾二郎
トリシャ・ブラウン/岡崎乾二郎『I love my robots』公演報告会

impulstanz
ダンス映像多数あり
カニングハム、KARAS、ローザス、ヴィム・ヴァンデケイビュス、ラララ・ヒューマンステップス、、、

「劇場への案内」磯崎新
水戸芸術館の劇場についての文章

勅使川原三郎+KARAS
「DAH-DAH-SKO-DAH-DAH」
(1994.1.6-9/アートスフィア、天王洲・東京)
「NOIJECT」
(1994.1.13-17/アートスフィア、天王洲・東京)
「Bones in Pages」ソロ
(1994.9.24-25/第一回神奈川芸術フェスティバル、神奈川県立青少年センターホール、横浜)
「真空」
(1996.12.13-15/湘南台文化センター市民シアター、藤沢・神奈川)
「Here to Here」ソロ
(1997.6.4-8/銀座セゾン劇場
「I was Real-Documents」「Q」
(1997?世田谷パブリックシアター、三軒茶屋・東京)
「Absolute Zero」ソロ
(1998.6.27-7.1世田谷パブリックシアター、三軒茶屋・東京)

見た公演リスト。シアタートラムの小さな作品は作品名忘れた。
「KAZAHANA」(2005)
NHK教育「芸術劇場」の放映で。

「電話をかけた。あと、転んだ。」
珍しいキノコ舞踊団公演パンフ
NHK教育の子ども向け音楽番組「ドレミノテレビ」の振付。ううあ(UA/歌手)とともとも(山口とも/廃品打楽器演奏者)とはるはる(木南晴夏/タレント)と子ども達がいろんな音や声を使って音楽を作ったり、童謡をううあが歌う番組。大友良英足立智美も出演した。伝説的音楽番組。


吾妻橋ダンスクロッシング
2004ぐらいから再び大流行のコンテンポラリーダンスの震源地的イベント。桜井圭介企画によるもので若手ダンサーの登竜門的イベント。「ダンスの歴史や教育も無いに等しく、それゆえ共有されるべきコンテクスト、その基準となるスタンダードも持たない「悪い場所」(椹木野衣)だからだ。劣悪な(?)環境のなか、各自ありあわせの材料をやりくりして「ダンスらしきもの」をデッチあげるのだから、いきおいデタラメ度というか革新性は高まる」(桜井圭介/公式サイトより)


その他、ダンス登竜門
セッションハウス
1990年代からダンス登竜門的イベントやってきた。
トヨタコレオグラフィアワード
2001から始まった次代の振付家のための賞
近年のコンテンポラリーダンスブームに一躍かっている。
賞金200万円


FADERBYHEADZ
佐々木敦のレーベルHEADZによる音楽と映画のサイト
試聴・販売あり


1990年代UNKNOWNMIX的な音楽に貢献したところ
「クララ・オーディオ・アーツ」
渋谷・山手教会奥マンション2F
今あるのか不明
ロス・アプソン
1994.8オープン。西新宿のマンションの一室にある。
マニュアル・オブ・エラーズ
通称マニュエラ。渋谷閉店後のパリペキンが一時間借りしていた。高円寺にある。ここの上?近く?にたしか岡画郎があった。
UPLINK
雑誌「DICE」を出版。UPLINK FACTORYでもUNKNOWNMIX開催。暴力温泉芸者の演奏あった。講座ではヒップホップの話とかしてたはず。
「WAVE 六本木」
5Fかな?狭い一角。品揃えは「Nadiff」的な感じかな?


「音響系」というジャンルは、パリペキンの「音響彫刻」という勝手な分類が初めだと言われているが、1993当時、注目され始めたサウンド・アートを音響彫刻と呼ぶこともあり、始原は不明だと思う。「MUSIC TODAY」No.19 1993 特集サウンド・アートの藤枝守「聴衆に完結しない音」の中で、音響的な量感を体験できるものを音響彫刻と呼んでいる。「サウンド・アート」とは、1991の「サウンドカルチャー」あたりがきっかけになり1990年代に発展する。「sound culture in japan」も行われ、ルー・ハリソンの演奏もあった。
サウンド・アート―音というメディア」(2000.1.28-3.12/ICC、初台・東京)
渋谷慶一郎(ATAK)+池上高志「filmachine」(山口情報芸術センター
(ルー・ハリソンはPMFの第一回目に来て演奏しているのだが、札幌でこの演奏を聞いたという人にあったことがない。このような良い機会をすぐに忘れてしまうのはどうかと。)

Schaulage
ヘルツォーク&ド ムローン設計によるアートセンター

ヴィト・アコンチ映像

金沢21世紀美術館
SANNA(妹島和世+西沢立衛)設計

909-ANOMALY2
キュレーター/椹木野衣
作家・パフォーマー/
Complesso Plastico、テクノクラート
根本敬、山塚EYE、大友良英
灰野敬二、暴力温泉芸者
(1995.2.4-4.2/レントゲン藝術研究所
人間の条件展
−私たちは、どこへ向かうのか。−
(1994.2.1-2.20/スパイラル、東京・青山)
キュレーター/南條史生
スパイラル全館を使いアーティスト
多数参加。
ダムタイプマシュー・バーニー、椿昇、
ビル・ヴィオラ、ボルタンスキー、太田三郎
宮島達男岡崎乾二郎+津田佳紀、
ギルバート&ジョージ平川典俊
キキ・スミス、テクノクラート
ナン・ゴールディン、柳幸典、荒木経惟、
森村泰昌、など。
文化庁メディア芸術プラザ
三上晴子インタビュー
ユリイカ 1994.1 特集 ジョン・ケージ
カニングハムによるケージとの共同作業の詳細あり。「音楽とダンスのコラボレーション過程」40年分。全て網羅していると言うわけではないが、かなりの数ある。資料価値あり。
909-ANOMALY2」無料パンフレット

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