中山英之 トークショー

キーワード補足情報

ソール・バス(ソウル・バス)
経歴等はwikipediaに
wikipedia日本語版
wikipedia英語版
(英語版の方が仕事名充実しています。)

トークショー内で話した一つだけ異色の映像シリーズ作品タイトルは忘れました。
(現在調査中)

監督したSF映像
Phase IV(1974制作)
予告編

ソール・バス展(1993.11.4-27/銀座グラフィックギャラリー)

銀座グラフィックギャラリーとは、DNP(大日本印刷)が企業メセナとして運営しているグラフィック専門ギャラリーです。展示スペースは非常に広く、一階と地下があります。
DNPは他にもアート情報サイトのartscapeも運営しています。

ヒッチコック
映画監督

2008.10.15 中山英之トークショー
トークショーの様子(画像)はこちら。
D&DEPARTMENT SAPPORO by3KGのブログ

タイトルについて (文・サクライ)

建築の仕事をやっていると「タイトル」とか作品名を付けるということが本当にしっくりこない。だから、とりあえず地名とか付けて、ススキノの住宅とか、施主の名前で中山邸等というようにとりあえずの名前で、その仕事を呼ぶ。
「ちょっと、ウチこない?」という時の「ウチ」は、完全にその人にとっての「ウチ」であって、「住宅」というような一般的な名前のものでもないし、「この住宅」というような「住宅」というカテゴリーの中のある一つの「住宅」でもない。
建売りのタイプ化された住宅でも一つ一つが住み手にとっては「ウチ」。
「今から行くけど、○○んちってどんな外観?」
「ピンクの壁のウチだから」
この場面の「ウチ」は、ピンクの壁。
さっきの「ウチこない?」の「ウチ」は、住んでいる所をマトメてそう呼ぶ。
同じ人が、同じ建物を、同じ言葉で呼んでも全く意味が違う。
このような異なる「ウチ」を制限された土地に一つに見えるように作らなくてはいけない。
建築に「タイトル」を付けることがしっくりこないのは、こんな理由だと思う。

絵画や彫刻や、メディアアートやインスタレーションのようなものは、展示場所に親切に「タイトル」が貼り付けられている。
現代アートとか呼ばれているものは、作品と「タイトル」がズレているというのが一つ特徴だったりする。
この場面、このものを「俺はこう呼ぶぞ」というように。
「便器」を「泉」とかね。
この作品が発表された当初、これのどこが「泉」なんだと、当然怒られた。しかも、最近また、この便器を「泉」と呼ぶようなことがしづらくなってきている。現代アートの作家達ですら、自分の作品を意味付ける若しくは、説明するわかりやすい「タイトル」を付けることが多くなってきているように思える。
でも、普段、大抵の人は、言葉を「ウチ」のように、そのつど使い分けているわけで、対象とタイトルがズレるというのは、さほど問題がないことなのに、特に最近は、そのつど固有の名前で呼ぶことは勇気のいることになってしまった。
そのつど「ウチ」と呼べるような建築が見たい。

映画と「タイトル」の関係は、これがまた厄介なのだ。
決まりではないけれども、「タイトル」を作品中に、大抵は冒頭の数分に見せなくてはいけない。
よくよく考えたら対象の名前を対象の中に入れるというのは、本当に難しいと思うし、そんなことありえるのかなと思う。相当、優秀な映画監督でも、例えば、ヒッチコックのような天才ですらも、むしろ映画作りの天才だからこそ、「タイトル」を作品中に入れるという、別の制作行為には頭を悩ますことになる。しかも、作り手の名前も入れなくてはいけないというのだ。
だから、ヒッチコックはそれを頼んだ。ソウル・バスに。
ヒッチコックが天才(止まり)なのは、そのためにだと思う。一方、ゴダール(GODARD)が神(GOD)なのは、ヒッチコックのような天才じゃなかったから、映画とタイトルと自らの名前を組み合わせることができたと言える。


マルセル・デュシャン「泉」(1917)

トークショーより

シャツの「かたち」→家の「かたち」

中山|デザインをするってのはどういうことなんだろうっていうのが建築の勉強をしている中でよくわからなくなってしまって、建築じゃなくて、シャツとか身近にあるものがなんでこういう「かたち」をしているのか考えていけば、建築のことも応用して考えられるようになると思って、でシャツっていうのがどこまで行ったらシャツじゃなくなるのか研究してみたんです。
(って昨日は言ったんだけど、ホントは)ソール・バスみたいなアニメ作りたかったんです。。。


中山|シャツってのは、極論すると袋に穴が空いた状態、トポロジー(*1)って考え方がありますけれど、数学でいうトポロジー(*1)は結局そのインクローズ(enclose)された、つまり、袋とそれに空いた穴という関係になりますけれど、そう考えれば家も同じになるって考えになりますけれど、ま、シャツも同じだと思って、極論すると袋に穴が空いた状態なんですけど、シャツって襟があるとか人の上半身の状態をなぞっているとか、開放される線で繋がっているとか、そういうことなんですけど、

中山|最終的にこれを作りたいと思ったんですけど、建築を作れないからシャツを作ろうと、、、カバンってファスナーついてますよね、ちょっと開けたら穴になってギューっとやるとなくなるみたいなことがコントロールできるのが、ま、ホントだったら、指をちょっと入れたら穴になって、ギューっとやればなくなるみたいなことをやりたいんですけれど、それができないので、ファスナーでとりあえず擬似的にそれを作ろう、

中山|最終的に行き着くのは、こういう丸い座布団みたいなもので、このまわりにファスナーをつけると、座布団2枚合わせられるので、4ヵ所こうやって穴があけられると、シャツを抽象化したものになる。これだと二次元なので、こういう風に変形してあげると、これ野球ボールの展開図なんですけれど、これをもうちょっと変形して、、、、家型の展開図だったんですけれど、これを殻に被せて、、、



中山|シャツを抽象化して、袖と襟の穴のヒエラルキーをなくしてあげて、等価にしてあげて、シャツではなくて作り手がある状態を作ってあげることで、そこからシャツってシナリオを使い手が見つけ出してくれるっていうシナリオができるなぁって(笑)。今考えると、相当バカげてるんですけれど、なんでそんなことを思ってたかと言うと、建築もここでこうして下さいみたいなものぜんぜんなかったんですよね、どっちかっていうとなんか得体のしれないものがあるんだけれども、見えないんですけれども、、、ここで何かをすると現われるんですけれども、その人がいなくなると意味が消えちゃう、で、建築家ってのはなんか意味を作り出す人なんじゃなくて、意味が生まれるかもしれないっていう状態を作って、でも誰かが何かを始めない限りそれは見えないっていう、口でいうのは簡単ですけれども(笑)、それを「かたち」にすると、なんかこうグロテスクなものになって(笑)

(実際に作ってみたら、)なんかすごい気持ち悪いものになってしまって(笑)、こんなもの作るつもりはなかったんですけれども、、、。

結局は袋に穴が空いてるって状態で、誰かがアクションを起こした瞬間に入口になったり、窓になったり、天窓になったり、そういう名前のつけられない何かになったりと、、、
それを力技でなんとかしようと(笑)やってたんですけれども、後は当時出てきたvectorみたいなソフトとか、illustratorとかいじってみたいな、、、そういう時にソール・バスみたいなものが作れる喜びが自分の中にあって、ま、音はつけられなかったですけれども、音をつけるならやっぱりバーンスタイン(*2)の作曲がいいなぁとか、まぁこういうことを学生の頃にやっていました。


*1.トポロジー
位相幾何学のこと。
wikibooksに位相幾何学の教科書があります。わかりやすいので参照にしてみて下さい。
一例ですが、図1のようにコーヒーカップからドーナツへ変形したり、またその逆もありうるような、形の連続に関することととりあえずここでの話では考えておいて下さい。
この話では、袋←→穴の空いた袋(=シャツ)の連続的関係をトポロジーとして扱いました。穴の空いた袋とシャツの関係ではありません。
北海道大学21世紀COEプログラム「トポロジー理工学の創成」が北海道ではトポロジーに関することを熱心に研究しています。市民講座等も行なっています。
北海道大学総合博物館(入場無料)の1Fにこの研究室があり、研究内容等が図付きで研究室前に掲示されています。

袋←→穴の空いた袋(=シャツ)のトポロジー的変形
←図1

*2.バーンスタイン
作曲家・指揮者・演奏者
経歴はwikipedia日本語版で。
ソール・バスがタイトルバックを担当した映画「ウェスト・サイド ストーリー」の音楽を担当している。ちなみにミュージカル版も担当している。
札幌で毎年開催されているPMF(*3)の提唱者。1990年の第1回PMFで指揮及び指導を行なっている。バーンスタインなしでは、現在のPMFの成功はなかったと言っても過言ではない。
PMFの提唱者、バーンスタインの思い出ウェブシティ札幌のサイト)

*3.PMF
パシフィック・ミュージック・フェスティバル。
札幌で毎年、開催される(クラシック)音楽のフェス。
開催当初は現代音楽も扱っていたようだが、現在はほぼクラシックの祭典と考えて良い。
現代音楽にカテゴリーされるルー・ハリソン(*4)が来日し、演奏したこともある。

*4.ルー・ハリソン 試聴はこちら。
作曲家・演奏家。現代音楽のカテゴリーでは、ジョン・ケージと並ぶぐらいの存在。
1993年にPMFで演奏。しかし、札幌でのこの演奏会に行ったという人に今までに会ったことがない。
1993?に作曲家の藤枝守が仕掛けたサウンドアートのイベント、Sound culture in JAPAN(シアターχ/両国)にても演奏。ケージから現代音楽に興味を持ったので、あれ?これはどう言うことなんだろ?とその演奏にかなり驚いて、公演終了後、すぐに「ルー・ハリソンのワールドミュージック入門」を購入してしまいました。
オススメ文献|MUSIC TODAY(No.19 特集サウンドアート) 「20.9世紀の芸術―ハイブリッドと快楽主義 ルー・ハリソンをめぐって」(朝吹亮二×岡崎乾二郎×藤枝守)

シャツの要素をどこまで削ってイケル?


袖とか襟とかどんどん削っていくと平面に穴だけが空いてるところまで行く。
その穴を今度あれこれ動かしたりして、いろいろ試してみよう。
という話から、穴の位置を変えられるようにチャックを使い、家のようなものを作ったという話。
少し話の展開が速かったので、ちょっと違う例も出してみます。

磯崎新の著書「見立ての手法」より「ユカの現象学」から。
この文章は、古代日本における、「住居」と「衣服」の同質性を「こもる」というキーワードでつないでいます。
「おそれ」が先か、古代日本における霊魂観が先かは不明だが、この文章によると、霊魂(たま)が夜になると肉体から抜け出ると信じられていたので、穴ぐらのような場所に夜は「こもる」ことにしていたと。
とにかく、住居が「こもる」場所であったということです。
そして霊魂が抜け出ないようにするためには、穴を閉じなくてはならない。この「こもる」状態を覆う殻が住居の原型と考えられているのと同様に衣服も同様の推定がされているとのこと。
「うつはた」という、古代日本の神聖な衣服は、折口信夫によると、まず着物は一枚の布で真ん中の穴から首の出ているものだが、「うつはた」はそれの穴のないバージョンつまり、「こもる」状態のものとしてあるとのこと。
たしかに、それは衣服だけど、手も足も頭も出ていないのなら、「住居」とも言えるわけですね。
2000年に開催された磯崎新「間―20年後の帰還展」東京藝術大学美術館/上野・東京)では、「うつ」の部屋に「うつはた」を現代バージョンにしたような三宅一生の「A−POC」を展示しました。
*「A−POC」とは、継ぎ目のないチューブ状の布をユーザーがカットして服を作るというもの。
磯崎新のこの文章にしても、昨日の中山さんの話にしても、要素を最少にした時に、空間が生まれ、用途によって、「住居」、「衣服」、あるいは何かと分けられていくということになりますね。
Tシャツを着ようとしている間に、頭を出す所から覗いてみると、そこが窓となる。そう考えると「ウチ」って結構簡単に誰でも建てられる気がします。


A-POC
ISSEY MIYAKEのプロジェクト。
現、ISSEY MIYAKEクリエイティブ・ディレクター、三代目デザイナーの藤原大によって推し進められた。
A Piece of Cloth(=一枚の布)の略。

一本の糸から一枚の布(ロール状)を作る。

藤原大によるプロジェクト
カラーハンティング ブラジル―藤原 大+イッセイ ミヤケ クリエイティブルーム&カンパナ・ブラザーズ
東京都現代美術館/2008.10/22-2009.1.12)
※「ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力」展と同時開催

見に行ってきます。レポートご期待下さい。

シャツのアニメーションはadobe directorを使って制作。
(*この説明の際、directorがflashになったとありましたが、やや誤解を生む発言でした。directorとflashは違うものと考えておいて下さい。)

串田和美(くしだ かずよし)
演出家・俳優
まつもと市民芸術館館長兼芸術監督

自分は演劇はほとんど見ないのですが、2000年?2003年?に松本で上演された「ゴドーを待ちながら」(作/サミュエル・ベケット)をNHK教育の芸術劇場で見ました。これは凄くおもしろかったです。緒形拳とほぼ二人演じるのですが、演劇独特の暑苦しさもなく、淡々と進んでいきます。
緒形拳さんが亡くなったのでもしかすると再放送やるかもしれません。

まつもと市民芸術館の話に出てきた、小ホール画像




今日はここまで/続く。

次は、
線を描いたり、消したり、コップやはしごを描いたり、消したりして設計していくの話についてです。
この描いたりと消したりが、設計することとどう関係あるのかってこと謎に思ってる人も多いと思うので。


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